だれもが主体者として。

「地方自治体の現在(いま)と明日」というテーマで開催された「議員の学校」。50回目を数えての開催というのがまずは素晴らしいことですね。私が議員になったころに「財政分析を地域でやってみましょう」という学習会に参加したことがきっかけで、何となく多摩住民自治研究所のみなさんとはご縁をいただき今日に至ってます。今回は「議員の学校」の取組みもが始まって以来の池上洋通校長がここでひと区切りをつけ、新校長先生にバトンタッチする…とも伺ったので、思いきって参加してきました。2日間みっちり学習をするというのは、意外と辛かったりするので…(しかも座学だと)。

池上さんは市議会でも自治基本条例を策定するときには参考人としてお話しをくださった市民研究者。なぜ「市民研究者」なのか…と言えば、私が勝手にそう思っているだけですが、大学教授などの肩書きをどちらかと言えば拒否しつつ、一市民として「地方自治」や「自治体の在り方」を深く洞察され、研究されてきた方だと思っているから。

昨日以来「自治体議会には党派や会派やない。」と力強く発言してくださることに励まされます。私たちのように市民の暮らしに身近なところで働く自治体議員はやっぱり党派や会派に縛られてはならないこと、「市民の暮らし」にしっかり軸足を置いて物事を考えることを原点にしなければならないこと、また自らの行動が常に人権重視、人権尊重でなければならないこと…そこには必ず憲法があること、そして地方自治とをしっかり意識することの必要性…何だか、自分自身が今までボーっとしすぎていたというか、改めて視界がすっきり広がったような講義を伺うことができました。

自分の考え方、枠組み、捉え方を自分のなかで整理しておかねばならないと思ったのですが、ただ、理念的なことはわかったとしても、現実、抱えている課題を突き付けられ、向き合わねばならないときにどう対処するべきなのか…「理想論に終わってしまう」にならないためにどうしたらよいのかは考え処、なおかつ悩み処だなと感じた次第です。「だれもが主体者として」ということも、それを実現する、具現化していこうとすると立ちはだかる壁は決して低くはありません。

「市民のために」「住民のために」

という言葉の先に、私たちはどう市民、住民の顔を思い浮かべているのか?…ということも実はポイントだったりするのです。そういえば、しばらく「日本国憲法」に触れていなかったことにもハッとさせられたりして、もう一度、条文を読み直してみなければならないとか…そんな想いになれたことが収穫。そしてまた、こうした「学びの場」にも積極的に参加することで、脳みそを鍛えていかなければならないということも。

話しは変わりますが、都立多摩図書館は立派な施設で、さすが東京都の図書館だなあと思うわけですが、セミナールームも素敵ですが、天井が高すぎてあまりにも熱効率が悪いですね…と実感したのももう一つの収穫。これからの建物づくり、天井が高すぎたりとかガラス張りとか…ここはちょっと慎重にですね。デザインよりも機能性で。

 

たくさんあるから、選べる幸せがある。

この週末もなんだか落ち着かずに朝からあちこちをチョロチョロしていて、スタートはマンションの防災訓練から。去年は参加者が集合して訓練開始…とスタートした矢先に、消防署のみなさんが出動しなければならなくなり…すぐに解散してしまったことを思い出しました。今年から地元の消防団第3分団の方々にもご参加いただくことができてよかった。マンションに住んでいる私たちにとって消防団の存在は縁遠いので、地域の支え手としてこうした場所にちょっとしたつながりがあることは良いことだなって思いました。ありがたいですね。

私はどちらかと言えば、一つ一つに丁寧に取り組みたいタイプなので、あっちこっちと行かなければならないところが多いことへの疲労感も大きいのですが、市長もとても忙しそうで、あっちいって挨拶、こっちいって挨拶・・・みたい感じでホント、大変そうでした。この週末はハロウィンもありましたが、私は該当年齢の子どももいませんし、その賑やかさに紛れ込むことはなかったのですが、商店街でも「ハロウィン」のイベントをやっていたので、そちらにはちょっとだ顔を出してきました。

午前中に多摩市社会福祉協議会でやっている地域福祉推進委員会の会議があり、その場でも宣伝していたのですが、エリアを担当している社会福祉協議会の職員さんと地域福祉推進委員会の方でバルーンアートやぶんぶんごまを子どもたちに。既に私が足を運んだ時間は「ひと波が去った後」で賑やかというよりもいつもののどかさのある商店街の風景でしたが、それでも仮装した子どもたち、親子連れが楽しんでいる様子を眼にすることができました。多摩センターのハロウィンイベントとは異なって、温かみがあるというのか、「地域とのつながり」を子どもたちが実感するにはすごくいい雰囲気かなと…そんな感想も持ちました。「こんなにあっという間に用意していたお菓子がなくなるとは思わなかった!」とお店で参加していた方が驚いていました!

その後、ひきこもりについての講演会、旧統一教会の多摩市進出に関しての情報や意見交換会の集会があったので参加。その後、ちょろっとポスティングをして一日終了。

旧統一教会の多摩市進出については、現段階では「見合わせる」との報道もありましたが、まだ「中止する」ではないですし、引き続き注視していくことが求められると考えていて、市民の皆さんの連絡会でもこれからも活動は継続されていくようなので、私もできるところで協力していく必要があると考えています。永山団地自治会で「旧統一教会系はお断り!」というステッカーを玄関ドアに貼ったりしているようですが、剥がされて捨てられるようなことがある…ですとか、信者の方が二人組で訪問活動をされているようなことも伺いました。「信教の自由」を私たちが否定することはできない。ただ、見聞きする範囲で知りえる事実から、慎重に対応していくことが必要であることが確認しました。

5年ぶりの武道祭でした。武道館が大規模改修工事を終えたタイミングで新型コロナ…PCR検査会場になったことを思い出していました。すごく厳重で警戒態勢になっていたというか、あの時の周辺の雰囲気を久しぶりに思い出しましたが、怖いくらいに静まりかえる公園に異様な空気感がありました。

ほぼコロナ前というのか、不自由さのない暮らしが戻り、中断されていた行事も復活できたこと、よかったなあと胸を撫でおろします。武道祭では剣道、少林寺拳法、柔道、空手道、居合道、弓道、なぎなた、合気道、太極拳‥‥といろいろな演技が見ることができます。自分は全く縁がない世界ですが、知らないからこそ見ていて楽しめます。もし、私が今からやるとしたら、やれそうなのは太極拳ですね。

来賓席の目の前で披露してくださった少林寺拳法・・・息をのみました。特に全国大会などにも出場され、優勝経験のある日本体育大学に所属している選手の方々が武道祭のためにわざわざお越しくださったのかしら?ものすごい希薄溢れたパフォーマンス。こんなにも間近で見たのが初めてだったこともありますが、「空気が斬られている」と思いました。

久しぶり開催の武道祭で、何となくお顔を存じ上げている方々が変わらず活躍されている姿を見れたこともうれしいことでした。議長は挨拶があるのでいらしていましたが、議員全員に案内状が届いているはずも、来賓として出席した議員は片手で数えられるだけの人数だったのは残念。ちょっと寂しい感じもありました。

それだけ、市内各地でイベントが開催されていたという証。いろんなところで催しがあって、市民のみなさんも週末、いろいろなお楽しみを選べることはいいことですね。「ありすぎて困る」というのもあるかもですが。選択肢が多いというのは豊かで幸せな証拠・・・かなと。決して当たり前のことではないですね。加えて、ある意味、平和だからできていることだと思います。

スポーツの秋に文化の秋・・・多摩ファミリーシンガーズの皆さんの公演にも足を運びまして、子どもたちの歌に癒されてきました。長きにわたり主宰されてきた高山佳子先生の「平和への想い」が歌うことを通じて、子どもたちの心に伝えられていくことの意味を考えさせられるのは、ファミリーシンガーズの45周年の歴史があるからですね。45年間ですから、巣立っていった子どもたちの数を考えても…。

そして、私たちがこうして秋空を見上げながら暮らすことができたり、学べたり、遊べたり、楽しんだり…とできることがどんなにか幸せなことであるかを実感せずにはいられません。このつながる空のもと、戦争、紛争が行われている地域があって、怯えている子どもたちがいて、市民がいることを私たちは頭の片隅に置いておくこと、大切ではないかと思うのです。

10月も今日と明日でおしまいですね。私は二日間の予定で「議員の学校」の参加してきます。

現状と課題と、解決策と。

総務常任委員会の視察でした。新潟市へのヒアリングでは「DXプラットフォーム推進事業について」、見附市では「市民生活と市の業務に関するDXの取り組みについて」というよりは「書かない窓口」についてです。

委員会では「市役所のDX」という観点での視察と考えでしたので、どちらかと言えば「書かない窓口」の方が参考になったかなあという感じでした。ただ、やっぱりといいますか、「書かない窓口」とはいえ、最後のところでは「確認しました」の署名をしなければならず、「完全書かない窓口」にはなっていないようです…。まあ、確認署名というのは何かの折に「証拠」になるものですね。

実際に「書かない窓口」の体験中もしてきました。見附市の場合には、現段階では主に、転入してきた方への対応が中心ということになっていました。転入手続きの際の煩雑さをより軽減するということです。窓口の職員さんにとっても、ものすごく達筆で文字が判読できない場合などもあるので、「申請用紙」ではなく対応できることにメリットがありそう。もちろん申請する側にとっての市民も「書くのが手間」と考える人が増えている時代になっていますし、「書かない」がありがたくもかんじ、便利さも感じると思いました。ただ、私みたいな昭和人間は別に書くことは苦にならないですし、むしろ一つ一つめんどくさい手続きを通じて、確認もできるような気もするので、それほど「書かない窓口」がキラキラしているようには思いませんでした。それに、そんなにしょっちゅう引っ越すわけでもないしなあ…とか。

一方、「書く」という動作が困難な方もいらっしゃるわけで、その場合には、「書かない窓口」はとっても便利。ただ、実体験からしますと、例えば、認知機能が衰えしまった父が「住民票」などを申請するための書類を書くだけで、ものすごく時間がかかります。もちろん「委任があれば代理人でも大丈夫です」になりますが、委任してもらうためにも必要なのは本人署名であって、やっぱり大変なんです‥‥。ですので、「書かせなくていい」というのは心理的なストレスも軽減されますね。本人さえ同伴していれば、写真付き証明書に口頭確認さえできればOKなので、そういう意味で、すごくいい。ただ、手続きの最終段階で、「これで良ければ、ご署名をお願いします」とか言われてしまうと、「まじか!」とため息つくだろうなと。見附市の場合には、そういう場合には…ご本人がいらっしゃれば、同伴者の方に代理で署名していただけたら大丈夫になっているようでしたが。

 

自治体DXについては、民間事業者も日進月歩で技術開発、収益を上げるために必死ですし、サービスそのものにも付加価値をつけながら、「住民サービス向上」のためのシステム導入などの営業もあるのかなと思っていますが、議員自身も手続き体験をたまにはしてみることで、現状把握やら課題も見えてくるのではないか、解決手段としての新たなシステム導入についても何というか「よりよい」が見えてくるようにも思った次第です。「書かない窓口」を導入することのメリットについても、「どんな書類を書かなくするのか?」ということも含めて、市民の方の煩わしさの軽減とともに、より正確でスピーディな行政の事務処理につなげていくことが必要ですね。費用対効果の検証などきちんと分析をし、「流行りだから」「何となく他市もやっているし」ということではなく、わが街でよりよいシステム導入を検討し、決めていくことが求められる気がしました。

見附市でも、職員さんたちがワーキンググループをつくりながら、検討を進めていったそうですが、やっぱり職員間の温度差みたいなものも解消することが必要で、意外と山あり谷ありながらも導入にこぎつけたのかな?…という印象も持ちました。「何のためにやるのか」をきちんと見定め、見極めていくこと。きっとここに尽きるのでしょうね。「現状」に「課題」に「解決策」と。他市の事例からも学べることは多いですね。実際に足を運んでみて、ヒアリングをしてみて初めて・・・インターネットからは得られない情報にも出くわすこともありそうです。

見附市役所を訪問した小学生たちからのメッセージが寄せ書きが掲示されていました。ほのぼの。「いろいろやりたいことがあるけれど、市役所で一番働きたい」‥‥なるほど‥‥と。人口減少、高齢化、少子化問題の深刻さは東京都を離れるとより見え、肌で感じる二日間だったかもしれません。

明日から1泊2日の行政視察。

ようやくできたので。ボランティアで配布してくださる方々にも一部お願いして…ポスティングはじめました。「いい運動になる!」と思えるところあたり、歳を重ねた証拠かなあと思います。早起きしてポスティングしてみたり。朝の1時間歩くだけで、すっきりした気分になりますし、こんなにも朝早くから動いている市民の方がいらっしゃるのか!と関心もしてしまいます。

今日は午前中はランチハーモニーのお手伝いをして、その後、同世代の友人たちと意見交換をボチボチ。「議員」の活動というか暮らしというのはやっぱり知られておらずですね。もちろん「市議会」の活動についてももっと知られていないなとも思います。議員の活動があって、議会の活動もあって、両方知られてほしいですが、どちらかと言えば私は「市議会」のことを知ってもらうことが優先で、そちらのほうが大事だと考えてきましたが、どちらも等しく知られておらず。本当に残念。

地道にコツコツ地域に配っているニュース、四半期に1度開かれる議会後に発行される「たま市議会だより」ともにどのくらいの皆さんに手に取っていただけているのかなあと。もちろん、発行部数についていえば、「たまし議会だより」は私の発行部数の何十倍って感じですけれども。

それにしても同世代との話題も、子育てのこともありつつですが、親の介護やら看護についても話題になることも増えてきました。友人からおススメされた1冊を早速、読んでみたいと思います。

さて、多摩市議会も各常任委員会が行政視察のシーズンになっており、私の所属する総務常任委員会では…いくつか行き先の候補地があったのですが、受け入れ先の自治体との調整結果で新潟市、見附市に行くことになりました。「視察」というだけで、なんとなくモヤモヤすると言いますか、市民からは「あんまりよく思われないんだろうな」という気持ちになるのが悲しいわけですが、テーマは「DXプラットフォーム推進事業」「市民生活と市の業務に関するDXの取組みについて」という内容。わざわざ新潟方面まで行かないと学べないことなのか…と言われてしまいそいうな気分が払拭できずにいたりしますが、それでも、百聞は一見に如かずで、それぞれの自治体で工夫やら苦労やら含めてあるにはあるので、多摩市に活かせることがあると良いな…というより、何かが活かせるはずだと思いながら行ってきます。

子どもが学びたいことを自分で決める。

都立永山高校で「さんだるセミナー」が開催され、中P連のみなさんが協力している取組みということもあり足を運んできました。「さんだるセミナー」…「さんだる?」とは、「サンダル履きでも気軽に来れるように」という想いが込められているようですが、タイトルだけだとなんのこっちゃという感じですね。ただ、いろいろな地域で開催されているようですが、私は初めて知りました。主催は「子どもの成長と環境を考える会」です。

私は小学校6年生の担任の先生に「私立に行けるなら、そちらの方が良いかもしれない。」というアドバイスのもと、その先生に「ぴったりの学校がある」と紹介された中学校を受験し、運よくその学校に入ることができた…という経歴で、高校受験のことは正直あまりわかっていないのですが、公立中学校での進路指導など、義務教育卒業後を見据えた3年間というのはとても必死なことで、内申点を確保するとか‥‥かなり大変そうだというイメージです。高校をどう選んでいくのかについても、通信制高校なども含めて、今は多くの選択肢があるようです。

これからの教育については「令和の日本型学校教育」だそうですが、その令和型に昭和頭で凝り固まっているとなかなかついていけなさそう・・・と思います。個別最適な学びにシフトしていくことも視野に入れた一人一台タブレット端末だとしても、そのタブレット端末で一斉教育が行われている場合も少なくないのでは?という指摘を聞いたこともあります。

さて、「さんだるセミナー」で驚いたのは、都立高校には普通科も入れて11種類くらいの特色を打ち出した学校があることです。エンカレッジスクールという名前くらいは聞いたことがあり、何となくは知っていたものの、それ以外にもユニークで特色があり、魅力的な学びをつくっている学校があるようです。東京都教育委員会のホームページでも「新しい時代の幕開け」ということで都立高校改革のことが掲載されていたので、また後程目を通してみたいと思いますが。

たまたま、会場でお会いした知り合いのママが「すごく勇気づけられるし、励まされた」と感想を述べておられました。「ウルッときちゃった」という言葉が物語るように、学校に足が向かない子どもと日々向き合っている中で、やっぱり進路のこと、心配だし不安になりますよね。そんな中でこうした説明会でいろんなタイプの高校があることを知れて、折れていた心が少し癒されたのかもしれません。我が子以外のことだと客観的に捉えることができても、実際に我が子のこととなると落ち着いてはいられない、ヤキモキする…というのは私もその気持ちがとてもよくわかります。子どもが大学生になっても、同じなので。まあ、もちろん、「鬱陶しがられる」というのも同様…。

セミナーが始まってから1時間ちょっとくらいしか覗くことができなかったのですが、「自分で学びたいことを決めていくために」と会場には小学生連れの親子も来ていたりして、すごく熱心に各高校のプレゼンなどに耳を傾けている姿も印象に残りました。いずれの高校も先生方のプレゼンテーション能力が高いなあと思ったのですが、「誇大宣伝になっていなければいいけどな」という風にもちょっと思ったりしました。

「さんだるセミナー」、多摩市でももっとたくさん宣伝をして、少しずつでも来場者が増えると良いなあ。子どもたちにとっても、よい機会になるはずです。多摩市教育委員会でも高校説明会を開催していたと思いますが、それとはまた一味違っている気もしました。

ところで、永山高校の新校舎がとても充実。…もちろん私は図書館には足を運んできましたが…「うわぁ!使わせてもらいたい」というくらいに素敵な図書館。これからは地域にあるこうした場所を私たち市民(都民)もお行儀良くして使えるといいのになあ。

今日はかれこれ、たぶん・・・4年とか5年ぶりに再会したみなさんとの話しが弾みました。それぞれが時間の流れとともに取り巻く環境を変えながら、常に前向きに生きていくというのが素晴らしいなあと学べたひとときでもありました。向上心をお持ちの皆さんの意欲に触れられるのはありがたい。いくつになっても「自分の学びたいこと、やってみたいことを自分で選んで、自分で決めて、行動と実践にしていく」…よい時間でした。一人ひとりの向上心、意欲を応援できるような環境もますます求められそうですね。

福祉フェスタ@総合福祉センター

総合福祉センター。建物を見るたびに、大規模改修どうするんだろう…と思わずにいられません。すごい建造物をつくってしまったものだなあと思います。負の遺産とは思いたくないですが、しかし、少なくとも改修工事費に40億円必要との試算がされていて、加えて、隣接するアクアブルーの大規模改修工事費用も入れると…一体どれだけの支出が見込まれていくのでしょう。現在の試算もそれ以上を覚悟しなければならないでしょうね。私たち市民は本当に将来にわたっても、大規模改修をし、しかも少なくとも30年は使い続けるための維持管理費用を負担し続ける選択をするのかどうか。公共施設問題は総合福祉センターやアクアブルーに限らず、避けて通れない課題。数年後を待たずして、早い段階から市民にも問題提起し、考えていくことが求められると思います。「今だけ、自分だけ」を脱皮したところで、議論ができるような環境を整えていく必要がありますし、考えていくために必要な材料提供をするのが行政の役割ですね。市民に必要な情報を集約し保有しているのは行政ですから。

感染症対策がかなり厳重?にされていた印象がありましたが、福祉フェスタがありました。久しぶりにお会いできた方々もいらっしゃって、うれしかったです。お互い元気に再会できるのは何よりです。今回、ボランティア団体のみなさんによる活動紹介や体験できるコーナーで、初めて点字の体験をしてみたのですが、地道というのか、志高く、地味なところで活躍してくださっている方々の存在で「福祉」が支えられていることを感じました。そして、手話なども同様ですが、こうした場があって「知ることができる」はとても価値があるとも思ったのでした。何事も「知る」から始まると思います。ちょっとだけでも体験してみて気がつくこと、わかることがありますね。当たり前のことかもしれませんが、「その当たり前」を確認することが大事。

模擬店などの出店もあり、私は東京多摩スマイルワイズメンズクラブさんのところで販売されていたレトルトカレーをお試しに購入してみました。多摩市で活動を開始し、でも、今はその拠点が府中に移ってしまったのですが、以前から応援しているシェア・マインドさんの商品に出会えたのがラッキー。よい活動が市外に拠点を移してしまったことは何とも残念なのですが、応援は継続していきたいですね。

それにしても、こうした福祉活動の現場で汗をかいておられる皆さんとお会いするたびに、自分が恥ずかしくなることも多い。地道地道な努力を重ねることの大事さ、必要性を教えられるのです。パフォーマンスだけで、アドバルーンをぶちあげても、本当に意味がないことを知らせてくれる感じ。私は福祉フェスタの無料映画上映会はとても良い作品がセレクトされていると思っているのですが、なかなか他の予定と重なって見に行くことができず、今回も先約があったので断念したのですが、「不安の正体~精神障害者グループホームと地域~」は見たかったなあ。残念。やっぱり「知る」ことから始めなければいけない。

しかし、総合福祉センターというのは「端っこ」すぎますね。ここがもう少し、街中にあって立ち寄りやすい場所だったら良いのですが。「福祉フェスタ」という名前も以前は違っていたように思いましたが、かつては旧東永山小学校グランドとかでやってた気もするのですが、違ったかな。記憶は曖昧になっていますが。時代とともにというか、「何のためにやるのか」を常に問いかけながら、今にフィットしたやり方でやっていく、大事なことを見失わずに継続していくことが求められるイベントかなという感想を持ちました。

私は教会でピアノを弾くというのが…ちょっとした楽しみなのですけれど、今年は失敗しすぎたので、自分の中では後味悪い思い出。来年もまた弾く機会がもらえると良いなあ。

’たまたま’だから、TAMATAMAフェスティバルなのかな。

暫定的に使用し続けた図書館本館が移転後の旧西落合中学校を活用し「TAMATAMAフェスティバル」が開催されたので、足を運んできました。来場していたかたが「どこからこんなに若者が集まってくるんだろう…」とおっしゃっていましたが、その方もまた、市外からいらしたようでした。

「若い人たちが集結」

という言葉がぴったりで、まさに雰囲気は「学園祭」でした。懐かしい感じさえしました。あの場所の日常を考えると、異空間が広がっていて、地域住民の方にはイベントの存在がどのくらい周知されていたのかなあとも思ったりしましたが、私と同様、興味深く足を運んだ方もいたようで、知り合いにも会いました。地域のクリエーター参加枠で関わっていた市民の方々にもお会いすることができたのも良かった。

 

個人的には図書館の跡地、そのまま残された本棚やロッカーなどなどを活かしているところに面白さを感じていましたが、「MUSEUM for NEWTOWN」で校舎2階を活用した展示はおすすめ。抜け殻になった図書館を感じながら、ゆっくりと楽しむことができました。

  

 

ちょうど市長、副市長や議長も見学をしていたようで、その一行を遠目に眺めましたが。市長らはこのイベントにどんな印象をお持ちになったのか、伺いたいですね。「いいイベントだった」という感想で終わってしまうのかどうか。

今年は図書館として使用していて間もないからこそ、まだまだ校舎なども使える状態だったと思いますが、もし、これと同じ催しを来年度も…となるとどうなんでしょうね。電気やら水道やら…止まった状態を解除するのもひと手間だと思いますし、とにかく人が入り、使わなければ、どんどんと傷んでいくので、「使用に耐えられる状態」を維持することが大変そうだなと。

ですので、市長は「いいイベントだった」とか「盛り上がってよかった」「若い人たちを応援しなきゃ!」…というのはそれはそれでとても良いのですが、その次は?…なんてことも聞いてみたいなあと。旧西落合中学校は今後、活用方針を考えていかなければならない場所ですが、校舎等「暫定使用」で日常的に解放されていくことは今の段階では考えにくいので。暫定でも使用を続けるには消防法への対応などもあり、一定、予算も必要になります。

ですので、そういう意味で、よいタイミングに「TAMATAMAフェスティバル」。だから、たまたま…だったのかなと思ってみたり。

結局、明るい時間に行ったのですが、帰るころには日も暮れて…秋になったなあ、日が短くなったことを実感しました。これからの時代、私は「心の表現」が今後ますます求められると思っているので、アーティストとかクリエイターという方々が活躍できる素地や環境が街の中にあることってとても大事だと感じます。そのためにどんな支援ができるか。前のめりで考えても良いのではないかと思いますね。あれだけの税金を使ってパルテノン多摩の改修をしたことを考えても。

話しを日中に戻しますと…パルテノン多摩大階段下に設置されたステージも盛り上がっていました。多摩センターはこうしたイベントを大々的に開催するとどうしても飲食店舗が足りなくなる傾向を感じます。パルテノン多摩大通りを活用してカレーフェス、旧西落合中学校にはキッチンカー、アルコールも準備されていて来場者の皆さん、楽しまれていました。

そういえばで、体育館の入り口には「泥酔者即退場」の貼り紙。いまどき(昔も?)、学校でアルコールは難しいわけなので、学校跡地だからアルコール販売もできるわけなので、そこもまた面白いかも。校庭でビールが飲める・・・みたいな。

 

ちょうど、多摩中央公園、パルテノン多摩から図書館までのアプローチについても遅延していた工事が完了して、今日から解放され、雰囲気としてはいい感じだなを感じました。大池に面したところに設置されたカウンターのようなベンチは人気。「あ、これいいねえ。」と歩く方々も話題にしていました。

多摩センターエリアの活性化…ということで、駅前のビルに設置されたデジタルサイネージでも大々的に宣伝されていましたし、電飾の準備もされていました。ということで、それはそれでよいとはいえ、やっぱりね…やっぱりね…ということで、街のお手入れを急がなくっちゃです。

 

傷んだパルテノン大通り。ここだけでなく…という話しなのですが、とりあえずコーンが設置してありますが、暗くなると、きっと危険だと思います。数日のうちに、たぶん対応されるはずかな…。あと、友達曰くホラーキティちゃんの看板は11月のキティちゃん誕生日に合わせたイベントでリニューアルされるようなのでよかった。

大盛皿うどん(今回は10分以上並んだ)、あいすまんじゅうの丸永製菓さんの「おいももなか」…佐世保グルメの記録。無理すれば、佐世保まで日帰りできるかもな。「おいももなか」、なかなかこちらだと目にしないレア商品。

諏訪中学校の音楽会がありました。

諏訪中学校の音楽祭があり、パルテノン多摩の大ホールまで足を運んできました。午前中だけしか居られず、1年生と2年生、特別支援学級の発表だけしか見れずに残念。本当は最後の音楽界に臨む3年生を見ることができると良かったのですが。

以前は学校の体育館を会場として開催されていたので、会場が変わり、随分と雰囲気も様変わりしたなあという印象。やっぱりホールなので音は美しく響きますね。ピアノもいいし。多摩市の子どもたちなのでパルテノン多摩の大ホールを使用して発表ができるというのは、一生に一度キリかもしれませんし、それはそれで思い出の一つになってくれるといいなと思いました。

でも、準備に向けては、学校の体育館が会場ではない分、いろいろと大変そう。特別支援学級の生徒の皆さんは楽器の演奏を披露してくださったのですが、学校から使い慣れた楽器を会場に運び込みする作業もあり、先生たちは念入りに、抜かりなく…事前の段取りをされていたのではないかと想像しました。昼食は学校に戻り、給食を食べるわけにもいかず、子どもたちもお弁当持参だった様子。お弁当を食べるための会議室の確保もされていたようです。学校でやる方が簡単で楽と言えば楽なのかも…と思えたりもしました。そういえば、学校の場合には土曜日に実施することが多く、働いている保護者が休暇を取ることなく足を運べるようになっていたかも。

 

学外に会場を移す…ある意味、そのプラスマイナスを天秤にかけたに違いありません。ただ「子どもたちにとっての最良、最善」の選択がなされ、それに伴う準備を整えてこられたのかなと。ありがたいですね。先生たちの大変さも垣間見えるひとときでもありました。

加えて…最近、感染症が言われているので、その対策にも一段と気遣いがされていたようにも思いました。学年全員合唱の際には「マスク着用(必須)」で、舞台に上がった子どもたち全員のマスク姿に、異様さを感じてしまって。でも、クラスごとの発表ではマスクを外し、声を出すことができたので、ホッとしました。やっぱり、思いっきり歌う、伸びやかに歌う‥‥マスクで口を蓋してしまうと無意識のうちに、気持ちそのものが真逆に向いてしまう気がするんです。

 

マスクをしないで歌う子ども姿が本物。「美しい!」と感じたのでした。子どもたちの一生懸命な姿はまぶしい。そして、その姿がうらやましくもありました。

 

それにしても、ひと昔前は外見だけと言えば外見だけですが、見るからに「やんちゃそう!」という子どもの姿があったわけですが、いまどきの子どもたちはおとなしいというか、みんな「ちゃんとしている」…という印象が強く残りました。みんなが真面目というか、「礼」と言われれば、しっかり頭を下げてお辞儀ができてしまう…というような。誰一人、場を乱す人はいない…みたいな。

 

一糸乱れずみたいなところを感じてしまって、それはそれで、神妙な気持ちになってしまった。

 

まあ、子どもたちも保護者などが参観しているとなれば、緊張感も高まり、「ピッとしていなくちゃ」という意識になるのかもしれませんが、乱れなさのレベルが高すぎ。今日この時だけの話しなのかもしれませんが、昔は「大人の目も気にせず」くらいの若いエネルギーを感じさせてくれる子どもたちもいたことを思い出すと、比較をすれば全体的におとなしくなった…お行儀がよくなったのかな…。つい昭和時代?までタイムスリップしてしまうと、何とも堅苦しさも感じるのですが、それに対し、子どもたちは飄々としている?!

 

合唱の出来映え云々の問題ではなく、いずれのクラスも今日の本番に至るまでには、さまざまな人間模様があり、青春ドラマのようなことがいくつもあったことと思いますが、クラス全体全員の気持ちを一つに束ね、同じ方向を向いて、努力をするという…その過程こそが学びですね。こうした行事を通じて子どもたちが手にする経験や体験が力になっていくんだろうなあと思ったりしました。

 

コロナ禍で地域の小中学校とも距離ができてしまい、こうした行事にもようやくお声がかかるようになったのはありがたい。子どもたちの様子、先生たちの振る舞いなど、直に感じることができる機会が私にとっては貴重でした。きっと午前中のよい雰囲気は午後からもつながっていき、いい音楽会になったのではないかと思います。

多摩センターもハロウインになってきましたね。かぼちゃゴロゴロ・・・。そして、今年も働き者のやぎたちがせっせと活躍中でした。

 

「旧統一教会」に対する解散命令、その行方は。

尾根幹線沿いの永山7丁目。旧統一教会が取得した物件ですが、今のところ…外からだと様子を捉えることもなかなか難しいです。先週末、すでに報道のとおりで「宗教法人の解散命令」の請求が決定しましたが、決定したことで安堵することはできず、やはり、今後の動向については継続して注視する必要があると思っています。

市長もこれについては素早くコメント、メッセージを発信されていました。(多摩市公式ホームページより)

 宗教法人世界平和統一家庭連合に対する解散命令の請求に関する多摩市長コメント

本日、国から宗教法人世界平和統一家庭連合(以下「旧統一教会」といいます。)に対する解散命令を裁判所に請求するとの発表がありました。

被害者の声を国が受け止め、宗教法人法に規定される報告徴収・質問権行使等により得られた多数の資料を基に、広範かつ重大な被害が生じていることを確認した結果であり、かつ宗教法人審議会の意見を踏まえ、慎重かつ適正に判断したものと捉えています。

旧統一教会においては、解散命令が裁判所に請求されることとなった経過を真摯に受け止めるとともに、現在、多摩市永山七丁目に保有する土地で解体工事が行われていますが、既に本市、市議会から申し入れたとおり、新たな施設の整備については、検討を中止し、白紙に戻すよう強く求めます。

また、国においては、被害者救済のためにも、旧統一教会が保有する財産が散逸しないよう保全措置に係る対応が早急になされることを望みます。
本市としては、引き続き、関係機関と連携の上、旧統一教会の動向を注視してまいります。

令和5年10月12日
多摩市長 阿 部 裕 行

市議会でも市長と同様、「旧統一教会」に対しては、市長と足並みを揃えた対応で臨んできましたが、解散命令は請求されただけの話しであり、実際に解散を命じるかどうかは裁判所の判断に委ねられます。

そしてまた、解散が命じられたとしても、宗教法人格がなくなるだけで、団体としての「旧統一教会」がなくなるものではありません。もちろん、これまでの被害を訴えておられる方も多く、それに対する問題点が消えるわけでもなければ、被害者救済等対応していくことが求められると思う一方、その教えを忠実に守り、暮らしておられる方もいらっしゃり、その方々にとっては生活の一部に信仰があると思うので、無理やり取り上げることができないことを改めて確認しておきたいと思います。信教の自由に照らしても、信者の方々が排除されるようなことがあってはならず、組織としての「旧統一教会」が否定されるにしても、一人ひとり信仰心までを否定してはならない…その存在を拒否することなく、地域でどう共生するのかは課題になっていくのだと受け止めています。とても高度な次元で、捉え、考えていくことが必要だと思っています。

とはいえ、やはり、新たな施設建設に対しては、一旦白紙に戻してほしい…とする立ち位置は今のところ変わらないですね。歓迎はできない。どんな施設ができるのかも含め、わからないことだらけなので不安ですし、これまでの「旧統一教会」の歴史、見聞きする範囲、知る限りにおいては、市内に拠点ができることに対する抵抗感はあります。それでも、「信教の自由」は守らなければならないという立場にあることは変わりなく、そこは、市長も私たち議員一人一人も同様「お互いを認め合って」という普遍の価値を基軸にし、外すことなく向き合っていかねばならない事項であると捉えています。

統一教会は NO!多摩市民連絡会」のみなさんもコメントを出されていますが、「解散命令」請求に対し、「旧統一教会」は争う姿勢を示していることを思うと長期戦になっていくことと想定されます。その間に、新たな施設建設が着々と進められる可能性もあります。私は合法的な不動産取引が行われ、現段階においては粛々と進めている「旧統一教会」に対し、介入することの方は不可能・・・という状況を動かすことの難しさ、厳しさも感じています。これは、誰しもが理解していることとも思います。市長が一番実感し、痛感しているのではないか…とも。正直、一自治体ではどうにもこうにも対応するにも限界があることも確かですが、私たちとしてできること、考えておくべきことを怠らず、一つずつ問題解決に向けて歩んでいきたいものです。決して、私たちが排他的になることで、新たな犠牲者が生まれることもある…これだけは避けたい。あ、「政教分離」の観点からも、もっと議論されていくべきこともありそうですね(これもまた一自治体で…というよりも、国全体、社会全体で…)。

市民性の涵養。

ふらっと立ち寄って…しばらく買うかどうかを悩んで迷いましたが…「健康植物」と書いてあったのサンスベリアですから、買うしかありませんでした。つい枯らしてしまったり、失敗することも多く、そのたびに「植木はもうやめる」と思うのですが、でも、お部屋の中にみどり(虫がいないこと前提)があるとないでは、やっぱり違うと思います。

今日も「高齢者が多くなってきて。」という話しを別々のところで耳にしたのですが、だから、数の少ない子どもたちをもっと大切にできる地域であって、社会にしていく必要があるのではないかなあという思いが強くなります。多摩市の出生数も今はデータベースの活用で明らかになっているように、既に700人以下になっているのです。オープンソースでこうしたグラフを作成してくださり、ありがたいですね。

そして、まちづくりに関する「担い手不足」のことが話題にのぼったのですが、「市民は無関心だ」というよりも「無関心ではいられないという状態になっていない」だけの話しかなと。「無関心をつくりだしているのではないか」というのは別の話しだと思うので、ちょっと置いておきますが、結局、必要に迫られ、「困った状況と状態」にならないと行動できない場合が多い。つまり、今のところは「担い手不足」の深刻さを身に迫る危機のように感じることも少なく、行動するまでには至らずなのではないかなあと。

なぜなら、日常の暮らしを思い浮かべてみても、「あーどうしよう…」と思わないと動けないことも多く、私の場合にも切羽詰まってから一歩踏み出す場合も少なくありません。実際に、「困った状態」になってから、気づき、そして行動することの方が多い。例え、それが、「後の祭り」であったとしてもです。

ですので、「担い手不足」を何とかしなければならないとシャカリキになったとしても、その深刻さが本当の意味で共有されていかない限りは今の状態から抜け出していくことの方がまず難しい。そして、「担い手づくり」をしていることに妙な満足感を得ている場合も多そうな気がしています。要するに、「無理やり」に近いかたちで担い手を発掘しようと思ってもハードルが高く、つまるところ「動かなきゃ!」と自らの意思で立ってくれる人がいなければ難しい。

そこで、最近思っているのですが、むしろ「担い手がゼロになる」…というような究極の想定しつつ、行政は「市民協働」をいつまでも唱え続け、まちづくりをしていくことの無理を問題にした方が良いのではないのかしらと。もちろん、それは「市民」を蔑ろにするという話しと次元が違います。

それにしても、シチズンシップ教育とか、市民性の涵養ということも言われて久しく、多摩市でもそれと相通ずるかたちで「ESD教育」も推進されてきたはずですが、その成果は多摩市が掲げる「2050年の大人づくり」のスローガンのごとく、まだまだ先にしか表れないのかもしれません。そうこうしているうちに、もういろんなことが伝承されなくなるとしたら残念なことで、例えば、先日も諏訪神社でお祭りがありましたが、こうしたお祭りでさえも、次の世代にバトンを手渡すことの難しさも感じるとの話も伺いました。

「市民性の涵養」という文字通り、一足飛びに何か成果が出るものではなく、じっくりとじっくりと時間をかけながら育っていくものだと思いますし、そのためには土壌も必要。「土壌」こそが問題になるなあと思うのは、「子どもの声」に騒がしいとクレームが湧きおこったりする地域で「市民性」はどう育っていくのか?と思うので。

要は冒頭に話しを戻すと、ますます少数派で選挙権も持たない子どもたちをもっと大切にできる社会にしていかないといけないということ。それが「子ども真ん中」というスローガンになっていると理解していますが、それを声高に言わなければならないほど「子ども」が端っこに追いやられている現実を地域でも捉えていきたいものです。多摩市は「子育てを育てるまち」と掲げていますが、子育てを育てるまちにしていくために必要な対応や対策を独自でもやっていけるかが問われそうですね。