今日は午前中、明後日から開会する12月議会の日程などを確認する議会運営委員会などに出席し、午後から認知症講座として開催された「気づいてる?認知症への偏見・思い込み」の学習会に参加してきました。「認知症と共に生きる」とのタイトルで繁田雅弘先生からのご講演、そして、認知症当事者、介護者、そして、地域で支援をされている専門家の皆さんの座談会を聴いてまいりました。
繁田先生は「自分が認知症だったら」を考えること、「当事者はどうしてもらいたいのか」を想像しつつ支援することの大切さをお話しされていまして、まさに、身につまされる思いでした。
私の場合も、遠方に住む認知症の父に毎日電話をしていますが、ついつい「こんなことさえ理解できなくなってしまったのか」と思ってしまい、コミュニケーションをとることが日に日に難しくなっていくような状況に、時に強い言葉で叱責口調になってしまったり、ため息まじりの言葉で会話してしまうこともあります。そんな自分に嫌気がさしたり、忍耐力の足りなさを感じるわけですが、だんだんとコミュニケーションができなくなっていくことは私だけでなく父にとっても辛いことなのではないか‥‥とも考えることで、自分の頭を冷やしています。ただ、私の場合は当事者が目の前にいない、遠方に離れていることもあって、介護にどっぷり時間がとられたりすることがなく、自分自身の維持ができているように思います。いずれにせよ、とにかく知識としての認知症と自分の目の前にある現実と…。私が日々、父と接している中ではだんだんと言葉が失われていくというのか、自分の考えていることや思いを表現する言葉が出てこなくなり、意思疎通のしづらさが出ていることを実感します。いつか、会話をすることもできなくなるだろうなあを想像することも難くないので、こうして電話ができるだけでも良しとしなければと。
繁田先生は認知症当事者の皆さんはだんだんと行動や動作がゆっくりになっていくわけで、決してできなくなっているわけではないとおっしゃっていました。でも、記憶がどんどん消えていくというのか、娘の顔すら忘れてしまい、すぐには思い出せくなっているほどですので、父の場合には「だんだんと行動や動作がゆっくりになっていく」と見守れる段階を通り越してしまったのかもしれません。そもそも、父は自分が認知症であることも自覚しておらず、携帯電話の操作なども今まで通りにできなくなっているわけですが、「ちょっと、勉強しないといけないと思っているんだ」と至って普通に前向きなところには救われるというのか…何というのか。
座談会では当事者の方がお話しをしてくださり「アルツハイマー」という診断を受けた時には人生が終わったと思ったとおっしゃっていましたが、もしかすると父も「自分は認知症かもしれない」と薄々考えていた時期もあるのかもしれません。その時に診断を受けていれば、また、今の状況も違っていたかもしれません。当事者の方が、自分自身を放棄せず、人生を豊かにする努力を続けていくことをしていきたいし、そのことがとても大事だと思っていると繰り返し強調されていたのは印象的でした。「認知症」の診断を受け止めて、次に一歩踏み出していくところのエネルギーや葛藤を乗り越えた時、見えてくる景色があるのかなと想像したのですが、やはり周囲のあたたかなサポートが必要不可欠であると感じます。
認知症当事者であるかどうかは外見からはわかりませんし、父の場合も全く普通に見えます。まだ、自分一人で出歩くこともできるわけですが、しかし、「信号丸無視」で歩くので、危険極まりない老人‥‥。でも、悪気があって、自己中で信号を無視するわけではなく、彼は信号の存在を忘れているよう。とにかく歩くことにだけ集中しているというのか、目的地だけのことしか考えられなくなっているというのか。いつか交通事項に遭うかもしれないと冷や冷やするのですが、高齢者の多く住む田舎町なのと彼なりのセオリーにて、何とかなっているようです。心配は尽きませんが、「信号が危ないから、出かけないようにさせる」ほうが酷だと思っているので、毎晩「信号は赤と青がある」を伝えるようにしています。私としては、今、父の認知症の進行をなるべく遅らせたい、今をどれだけ長く維持できるかだと思っていますが、なかなか難しいですね。今日の繁田先生の話しを聴く限り、認知症の薬についてもその内容を正しく理解しておく必要があることがわかりました。
「老いていく」
誰もが歳を重ね、老いるわけですが、「認知症のことを学ぶ」というのは、老いていく自分を自分自身で受け止めたり、認めていくためにあるのかもしれません。今日は何となくそんな風にも感じました。そして、「認知症予防」とも言いますが、やっぱり、好奇心が旺盛なことは大事、自分自身にとって楽しい時間、自分の好きなことを知っておくことが大切ですし、そのことを周りと共有しておくこともポイントかなと。今日の座談会でお話ししてくださった方は、バンドでドラムをやっているそう。会場では机をドラムに見立てて、「イパネマの娘」を披露してくださったのですが、自分自身の「好き」があって、自分自身を「維持する」につながっているようにもお見受けしました。
「もしかしたら、物忘れしやすくなっているかもしれないな」‥‥という早い段階で診断を受けることが、むしろプラスに転じていくのかもしれません。父の場合にももっと早くに診断を受けていれば…どうだったのかなあと考えれば悔やまれますが、今、過去を振り返っても、何も取り戻せません。
「物忘れの診断を受ける」ことをお勧めしたりする行為そのものが高齢者の方のプライドを傷つけることになったり、それもまた現実ですが、気軽に診断を受けることができる状況、みんなが診断を受けることが当たり前と思えるような環境になっていくことも必要かもしれません。認知症に対する恐怖心なく、「認知症になっても大丈夫」と言えるような社会環境を整えていきたいものです。今後、80歳代の30%、90歳代の50%が認知症とも言われる時代にあって、社会の側が長寿社会に対応しきれていないのは明らかです。団塊の世代が80歳代になっていくのもあと数年後・・・社会全体としてはようやく「子ども真ん中」とあえて言わなければならない時代にもなっているわけですが、国全体の税金の使われ方も考えてほしい。