「その先の未来」を考えて。

昨年来「認知症」のことも家族として…頭を悩ませるというか、抱えている問題の一つですが、「軽度認知症」の段階で進行を遅らせることの工夫ができないと、その先、とても辛いかもしれないと感じているところ。そもそも「認知症」になっていることも理解ができないので、そこで会話終了…みたいな。コミュニケーションがどんどんうまく図れなくなってくるのだなと実感しています。「耳が遠くなっているからかな」と疑ってみたりしましたが、「いや、そうではないだろう…」と。こちらの話すことは聞きとれず?聞き入れることなく、一方的に話したいことを話す。しかも、脈略ないことを…みたいな?携帯電話の扱いもどんどんわからなくなってくるのは当然のことで、たぶん、携帯電話やエアコンやテレビのリモコンや全部同じようにしか見えていないかもしれないし、ボタンがたくさんあって、「とりあえず、押してみる」ようなことをしているのかもしれないし。「あなたが頑張っていることが大事なんだから、それでいい。」と言われたことに感謝しながら日々を過ごしつつ、「親孝行とは何か」なんてことを、突きつけられている気がします。

「認知症になっても大丈夫」

と言えるような社会があるかと言えば、大丈夫な場合のほうが少ない…きっと…と思っていますが、周りの理解はあったにせよ、当事者として家族が介護することは辛すぎる。何しろ「人手」が必要。足りてないと思う。最近はファミリーレストランでも見慣れない店員さんというか、ネコのロボットが配膳してくれるけれど、それでは取って代われないから。頭ではわかっていても、実際の現場は壮絶で、だんだんと排泄もできなくなってくるといよいよ。「その人らしさが残っている」というけれど、まるで「どこに」と思ってしまったり。断片的に会話に出てくる記憶だけがその人らしさなのか?・・・もはや、理解不能なんですが?とこちらも喜怒哀楽で対応するようなことはなく、ただ、会話をさせてるだけかもしれない自分に時に気落ちします。とにかく時が進むし、抗えないんだなあと。

 

「その先の未来」を考えるのが仕事。

 

それは、決して議員に限らないことであって、私たちはいつも「その先の未来」を考えていく必要があると思っていますが、「よく読んで、考えろ」というのことをいつも父は言っていて、「書籍だけ」は買ってくれたことが思い出。むしろ、一緒に出掛けても「書籍しか」買ってくれないというのか。「よく読む、そして、先を考える。考えることをやめない。」…はあ、父の教えか…。それにしても、認知症の進行のスピードもその人による。「その人らしさを失わず」…という言葉だけが頭の中を行ったり来たり。悶々としないわけがありません。そして、父が認知症になるとか…そんな未来は考えてこなかったなと反省もするのです。当事者になってみなければわからないこともたくさんあり、でも、当事者にならなくても、本当はもっと知っておくべきことが「山」とあるなとも。

 

 

ところで、来月「こどものまち たま」が開催されます。とても楽しみにしています。多摩市でこの取り組みが始まった時、「うわああ!」とすごく感激したことを思い出していますが、子どもたちが「自分」で「自分たち」の「まち」をつくっていくわけで、そこにきっと育まれていくだろう自治意識の「芽」に期待するのです。市内の学校に2度ほど、チラシを配布したとのことです。モデルとなっているドイツの「ミニ ミュンヘン」には実に40年以上の歴史があって、3000人を超える子どもたちが参加しているというのですごい!

「その先の未来」はやっぱり、続く世代が中心になってつくっていき、続いていくものなので、こうした取組みは「子どもたちだけのものではなく」存在し、きっと民主的な社会づくりを分厚くしていくのでしょうね。子どもたちには想像力を豊かにしていくというか、まさに、そのレッスンの場にもなっていくというか。疑似体験が力になっていくはずと思うだけで、すごく期待ができるというか、希望が持てます。こうした取組みに、まちの未来を感じられる、まだまだこれから頑張れると思い直せることもまたプラスなこと。私もほんのちょっとの時間だけ当日ボランティアで参加させてもらうことにしました。

今、まだまだ活動資金が足りていないとも聞いていますが(寄付集め中)、それでも「やろう!」と奮闘している大人たちの志が熱すぎるなと。よかったら応援してください。