SDGs…教育勅語?!

昨日、アーサー・ビナード氏の講演会がありました。「はらぺこニッポン! この国の食料自給はいったいどうなるのか」というタイトルにも魅力を感じました。そして、食糧自給率の低さを話題にするのかなあ…と思っていたのですが、「カロリーベースで食糧自給率が約38%ってどういうこと?」「カロリーって何なの?」という問いかけから始まり、その話の内容は、私たちが知らされていることってどんな情報なの?、きちんとその内容が吟味できているの?‥‥「SDGsって何?」…日本の小学生は17の目標を暗記しているけれど、海外の人はSDGsなんてまるで知らないよ!…なんか、子どもたちが暗記とかさせられていて、まるで「教育勅語みたい」…という独特の表現に私はかなり衝撃を受けました。

そして、自然エネルギーについて、「太陽光パネルは誰が後始末をするの?」…という視点など、耐用年数が終わったパネルの大量廃棄問題はかねてからの課題になっていますね。過去にも指摘されたことがあります。ただ、それが「まるで原子力発電と変わらないのではないの?」‥‥と。パネルも猛毒で埋め立て処分は大地を破壊します。土壌汚染…。確かになあと考えさせられるわけです。つまり「自然エネルギーがさも良いようなことだけが言われる風潮」に対し、危機感を抱いておられるのかなと理解したのですが、風力発電も含めて、「自然エネルギーだからなんでもOK」ということにはならない。だからこそ、今までの自分自身の習慣をちょっと見直してみる、行動を変えてみるからでしか、始まらない…となるのでしょう。私たちは加害者でありながら、被害者でもあるというのか…。

ビナード氏は同時に、昔々、「クウシフ」「鉄のこびと」という紙芝居を紹介くださいました。戦時下、洗脳の道具として用いられていたのかな。「クウシフのときにはどう逃げたらいいのか」を子どもたちにも伝えるとか「鉄のこびと」という紙芝居では子どもたちが自分たちの持っている自転車とか、おもちゃなどなど…武器の材料になるものを提供することが賛美され、子どもたちがお国のためにと喜んで差し出す姿が描かれているのだとか。「紙芝居」というツール、国民に何かを知らしめるために用いられた優れたツールだったようです。戦後、GHQが作成した(簡単に推測できる)紙芝居「ダムと道路」には会場からも失笑止まず…でしたが、ダムをつくって、道路をつくって…これが、みんなの仕事になって‥‥それが復興への道。ものすごくわかりやすいストーリー。ダムや道路をつくり、自然を破壊することに心痛めた方はきっと多かったのだろうと思いましたが。

今の日本で私たちは「どうやって情報を見極めているの?」という重大な問題提起が最後の締めくくり。批判的思考が失われているのではないか?と言われたようにも思いました。少なくとも、鵜呑みにしないこと、大事ですね。「自分の頭で考えてみる」、ここ、放棄しないようにしたい。

今日は諏訪小学校の学習発表会へ。合奏や合唱を披露してくれた学年と総合的な学習の時間などで学んだことを発表してくれた学年と。やはり、今のトレンドというか、子どもたちが学んでいるのはSDGsでも最も重視されるべき環境問題ですね。脱炭素化、CO2削減のために学び、自分たちができることを真剣に考え、そして発表する姿を目の当たりにし…思わず、昨日のビナード氏の講演を思い出したのですが、子どもたちはもう当たり前のように環境問題を身近に感じ、大人以上に真剣に切実にその課題解決に向き合っているなあと。指導する教員も子どもたちの学びを深めていくために必要な視点など事前に準備することと思いますが、まさに、その力量と技量が問われるというのか、教員の意識がそのまま子どもたちの成果発表にも表れるようにも思いました。教員の真剣さが子どもたちに伝わってこそ、子どもたちの関心は高まり、学びは深まり、どんどんと広がっていくのだろうなと。

ということで、学習発表会は子どもたちの歌声に元気づけられたり、素敵な歌詞に癒されたり、一生懸命、楽器を演奏する姿にほっこりしながらも、高学年で学んでいる地球環境問題を学んできた子どもたちの発表に、なるほど「教育勅語」とも指摘されたビナード氏の表現に言いえて妙だなと感じてみたり。ただ、そうは言っても、環境問題を身近に感じ、自分事として捉えることのできる感性を磨いていくことは必要不可欠であって、その点からすると、今の小学生たち素晴らしいなあ!。

その素晴らしいが素晴らしい!…なのか、それを学ばなければならない時代になっていることもまた一方で憂うべきとも言えますが、子どもたちの学びの質というのか、その在り方がひと昔前とは様変わりしていることだけはわかります。単なる教科学習だけをしていればいい時代ではなく、教科の学習で得た知識などを駆使しながら、「考える」‥‥今風に言えばしっかりと探求をしていく…というか、探求の仕方を仲間と共に学び合っていく感じ。

ところで、最近というのは、保護者は自分の子どもの発表の時にしか見ることができない?もちろん、昔は我が子の発表だけを見る保護者もいらっしゃったと思いますが、他の学年の発表なども見たりして、知らず知らず「子ども」の成長を感じる機会があったと思うのです。でも、今は、保護者も自分の子どもの学年を見たら、総入れ替え…という感じになっていて、最初から我が子のいない他の学年は見れない感じになっていました。それはとっても残念なことのようにも感じます。この時代だからこそ、一人っ子が増えているからこそ、「高学年になるとこんなに成長するんだなあ」とか「低学年の時はこんな感じだったよなあ」と保護者も感じられるといいですよね。「我が子しか見なくていい」になっているとすれば、それもまた、「親としての成長」を妨げる可能性もありそうで。単なる印象的なことでしかありませんが、「我が子しか目に入らない」あるいは「他には無関心でいい」を生み出す要因にもなる感じがしてしまい。親というのは意外と見ているようで大勢の子どもたちを見る機会がそうそうあるわけでなく。だからこそ、こうした学年違いの子どもたちを見れることはとても勉強になります。少なくとも私はそうだったかなあ。

 

今日は諏訪小学校で全学年の学習発表会を見終えてから、南大沢学園の文化祭にも行ってきました。これもまた学習発表会という感じですね。私は初めて伺ったのですが、都立の特別支援学校の手厚さを感じたのは、やはりその職員数にですかね。徹底的な職業教育が行われていることもわかりましたが、私が校舎内を一巡りした印象だけで言えば、生徒の皆さんがとても生き生きと過ごしているエネルギーを感じました。お休み処の教室など、装飾がとても凝っていたり、写真部、美術部、鉄道研究部のみなさんの展示発表など、力作ぞろいでした。予約していたCAFEひまわりでは食品コースの生徒さんがハンドドリップコーヒーを淹れてくれました。「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」「おまたせいたしました」「少々おまちください」…日頃、学んでいる接客のスキルを披露する機会になっているのですね。

先日、「都立高校と特別支援学校、一体化」と報道されていました(yahooニュース)が、インクルーシブ教育の視点は重要とは言え、子どもたちへの指導、例えば10人に1人の先生とか、あるいは南大沢学園の場合には職業訓練がきめ細やか、丁寧に学べるような環境を後退させてほしくないなとは思います。

さて、本日、移動距離長く、南大沢学園から、聖蹟桜ヶ丘で「ともフェス」、その後また多摩センターで「協創セミナー・協創講座」の第1回目。とてつもなく盛りだくさん過ぎて、頭の中、情報パンパンで飽和状態。「ともフェス」で女性の支援をされている遠藤さんのお話しもとても学びが多かったです。「協創セミナー・協創講座」はまた明日も参加します。ゆっくり頭のなかみを整理します…。とりあえず、ここまで備忘録完。