市民性の涵養。

ふらっと立ち寄って…しばらく買うかどうかを悩んで迷いましたが…「健康植物」と書いてあったのサンスベリアですから、買うしかありませんでした。つい枯らしてしまったり、失敗することも多く、そのたびに「植木はもうやめる」と思うのですが、でも、お部屋の中にみどり(虫がいないこと前提)があるとないでは、やっぱり違うと思います。

今日も「高齢者が多くなってきて。」という話しを別々のところで耳にしたのですが、だから、数の少ない子どもたちをもっと大切にできる地域であって、社会にしていく必要があるのではないかなあという思いが強くなります。多摩市の出生数も今はデータベースの活用で明らかになっているように、既に700人以下になっているのです。オープンソースでこうしたグラフを作成してくださり、ありがたいですね。

そして、まちづくりに関する「担い手不足」のことが話題にのぼったのですが、「市民は無関心だ」というよりも「無関心ではいられないという状態になっていない」だけの話しかなと。「無関心をつくりだしているのではないか」というのは別の話しだと思うので、ちょっと置いておきますが、結局、必要に迫られ、「困った状況と状態」にならないと行動できない場合が多い。つまり、今のところは「担い手不足」の深刻さを身に迫る危機のように感じることも少なく、行動するまでには至らずなのではないかなあと。

なぜなら、日常の暮らしを思い浮かべてみても、「あーどうしよう…」と思わないと動けないことも多く、私の場合にも切羽詰まってから一歩踏み出す場合も少なくありません。実際に、「困った状態」になってから、気づき、そして行動することの方が多い。例え、それが、「後の祭り」であったとしてもです。

ですので、「担い手不足」を何とかしなければならないとシャカリキになったとしても、その深刻さが本当の意味で共有されていかない限りは今の状態から抜け出していくことの方がまず難しい。そして、「担い手づくり」をしていることに妙な満足感を得ている場合も多そうな気がしています。要するに、「無理やり」に近いかたちで担い手を発掘しようと思ってもハードルが高く、つまるところ「動かなきゃ!」と自らの意思で立ってくれる人がいなければ難しい。

そこで、最近思っているのですが、むしろ「担い手がゼロになる」…というような究極の想定しつつ、行政は「市民協働」をいつまでも唱え続け、まちづくりをしていくことの無理を問題にした方が良いのではないのかしらと。もちろん、それは「市民」を蔑ろにするという話しと次元が違います。

それにしても、シチズンシップ教育とか、市民性の涵養ということも言われて久しく、多摩市でもそれと相通ずるかたちで「ESD教育」も推進されてきたはずですが、その成果は多摩市が掲げる「2050年の大人づくり」のスローガンのごとく、まだまだ先にしか表れないのかもしれません。そうこうしているうちに、もういろんなことが伝承されなくなるとしたら残念なことで、例えば、先日も諏訪神社でお祭りがありましたが、こうしたお祭りでさえも、次の世代にバトンを手渡すことの難しさも感じるとの話も伺いました。

「市民性の涵養」という文字通り、一足飛びに何か成果が出るものではなく、じっくりとじっくりと時間をかけながら育っていくものだと思いますし、そのためには土壌も必要。「土壌」こそが問題になるなあと思うのは、「子どもの声」に騒がしいとクレームが湧きおこったりする地域で「市民性」はどう育っていくのか?と思うので。

要は冒頭に話しを戻すと、ますます少数派で選挙権も持たない子どもたちをもっと大切にできる社会にしていかないといけないということ。それが「子ども真ん中」というスローガンになっていると理解していますが、それを声高に言わなければならないほど「子ども」が端っこに追いやられている現実を地域でも捉えていきたいものです。多摩市は「子育てを育てるまち」と掲げていますが、子育てを育てるまちにしていくために必要な対応や対策を独自でもやっていけるかが問われそうですね。