ナラ枯れも馴染む景色。

今日は大阪に住む友人と会い、大いにおしゃべりをして帰宅。面白そうなことに関わっていて、話を聴いているだけで視野も広がるというか、企業の「SDGs」に対する関心度合の高さにもなるほどなるほど…と頷いたりして、とても有意義な時間でした。いつもの帰り道を歩いていて…ふと見上げると、ナラ枯れしていて悪目立ちしていた木も遠くから見ると、何となく周りに溶け込んでいるような感じ。木を一本切るというのにも賛否両論、そしてまた、一本切るにも大きな木であればあるほどに予算も必要となり、ここだけではなく、広がる被害への対応にも優先順位をつけていくしかありません。

ただ、樹木の管理を含め、適切な対応をし、街並みを維持していくための予算を一定確保していくことの大切さを痛感させられますね。決して放置しておいてよい…と思っているわけではないのですが、先立つものがなければ、放置せざるを得ない…という台所事情があるとすれば…もちろん、事これに限らずなのですが、納税者である市民としてどう受け止め考えていくのかも問われていくとも言えます。限られた財源、何を優先していくのか、税金をどう使っていくのか、私たち市民一人ひとりが関わっていることですね。無関心であっても無関係ではないということ…頭の片隅に置いておきたいものです。

 

日が落ちるのが早くなり、夕焼けチャイムの時間も早くなりましたね。子どもたちはチャイムを気にしているのですが、「まだ、4時だから…」って遊び続けているみたいですね。「子どもは風の子」という言葉を思い出しながら、公園で薄着で走り回っている子どもたちのいる光景を見ると、うれしいなあって思います。

最近思うことは…「余白をつくる」ということ。自分に「余白」があるかないかを確認しながら、日々を振り返ることは大切かなって感じています。これから、また年末年始とその前に定例会も始まるとなると、追われるようになるのです。一週間前のことも、なんだか、もうずいぶん前のことのように感じたりもしてしまう今日この頃。そろそろ来年のスケジュール帳も購入しておかないといけないなあ。

 

「食」と地球の温暖化

干し柿のお裾分け。ありがたくて、すごくうれしい。傷まないように油断してはいけないのですが、せっかくなので数日つるしてみてから、いただくことにします。今日は生活環境常任委員会で非公式の勉強会があり、副委員長の本間さんつながりで講師を依頼した環境省の方にいらしていただいて、「食と地球温暖化対策」をテーマに学ぶことができました。秋になったら柿が色づいて、そして、渋柿もこうしておいしく吊るして、保存食としても貯えることができるような食文化も当たり前なくなるいつかが来ないようにしたいなあと思うわけでした。委員会では「食品ロス」に注目していたのですが、「食全体」を捉える必要性について共通認識することができました。

ちなみに、今日の勉強会の資料は環境省が実施した「サステナブルで健康な食生活に関する意見交換会」で使用された資料(こちらの資料を眺めるだけでもとても勉強になります)をふまえ、温暖化対策に関し、国際的な動向、国内の取組みからの解説でした。

 

しかし、「レジ袋有料化を進めるにも、関係者間の調整をするのがとても大変であった」というのは想像に難くないわけですが、地球温暖化対策を強力に推進させようと思うと、さまざまな軋轢が生じるわけであり、なるべく穏便に…としようとすればするほどに、なかなか動かず進まないような印象ですね。環境省の苦労を察することのできた学習会でもありました。本当はもっともっと「製造者責任」を追究していくことの必要性を感じるのですが、そうそう簡単に規制で縛ることも難しい。「作らない」「買わない」をセットにして考えなければなりませんし。結局、行きつく先には、私たち一人ひとりのライフスタイルの転換、意識改革というのか変容が求められます。消費者である私たち一人一人の行動を変えていく…ものすごく難しい点ですね。環境にやさしいエコ製品…価格面から言えば安くないですし。買う側からすれば、意識はあっても…でも…ですね。

 

そもそも地球温暖化対策については、やっぱり、まずは国が…そして、東京都が、多摩市が…となるわけで、やっぱり一自治体で取り組むには荷が重たい。ただ、市民に最も身近な行政だからこそ、できることとやるべきことがあるのではないのか?と思っていて、啓発してもしてもしてもしても…しすぎることはない…ということで、健幸まちづくりの大前提になる地球環境ですから、もっとPRを含めた発信には力を入れていくべきと思っています。

 

そして、やっぱり、教育が大事であって、その観点からは「消費者行政」にも力を入れていかねばならないと痛感するものです。多摩市には立派な消費生活センター…ベルブ永山内にあるのですが、ほとんど知られてない施設ではないか?と思っています。6月議会でも触れたのですが、少し(かなり)テコ入れ必要。

 

国における環境省と同じく、我が多摩市の環境部も何となく後進部隊なイメージが強いのですが、それを払拭していく力が必要ですね。「政治的」に動かしていかないと、地球温暖化対策、気候危機、気候非常事態宣言の推進ができていかないような気がしています。市長の危機感が言葉だけでなく、しっかりと市政運営にと結びつくとき、多摩市の取組みもまた強力推進されていくことでしょうね。ということで、12月議会の一般質問は…半年前に引き続く…「多摩市気候非常事態宣言」に関して、生物多様性からのアプローチについて一般質問する予定です。

 

 

なんとタイミングが良いのでしょう!…国立環境研究所の動画チャンネルでも「食システムの脱炭素化」がコンパクトな内容で掲載されていました。参考になります。(※国立環境研究所の動画チャンネルのはそのほかのものも含めて、おススメです。)

だんだんとクリスマスになってきた…。

雨予報前の植木鉢の避難。雨が当たらない位置に移動させてから外出。午後からは都市計画審議会で…事前に送付されてきた資料には目を通すものの、専門的な見地から都市計画を議論する場…これは議会の充て職というのか、議会選出の委員枠があり、他の議員の皆さんとご一緒しているわけなのですが…私にとっては場違い感のある審議会でもあり、ただ着席しているだけの自分自身に勉強不足を痛感させられる時間でもあり。議会からこうした場に参加することの意義と意味があるはずなのですが、とかくその役割が果たせているのかどうか…と自問自答している感じなのです。迂闊に発言できないような雰囲気があって、それだけ、この審議会には重みがあるとも受け止めているのですが、一般的な知識や理解だけではついていけない感じがします。

ハロウインが終わったとたんに、街の中が一気にクリスマスカラーになりはじめ、クリスマスの飾りがちらほら…囲まれるようにもなってきました。そろそろクリスマス気分を楽しむためにと一年に一度だけ登場する飾りでも出してみようかなあという気分です。今、出さなければ、今年最後の定例会が始まり、あっという間に年末年始となってしまい、結局、飾らずじまいで終わってしまいそう。日々の暮らしを楽しむ…という心がけを実践しようと思うわけです。

地域の活動って何か…を考えさせられるひとときもあって、まちづくりへの参加を呼びかけ、それに応じ、熱心にかかわりを持とうとした結果…得られたものは?

「学習性無力感」…

「参加疲れ」…。

何とも言えないというか、残念感とか無力感を感じてならないという声が聞こえてきます。「参加してもなあ…」と前向きになれない気持ちを大きくしてしまうような現状を打破するにはどうしたらいいのかってつくづく感じております。

最近の出来事から言えば、「どうせ投票してもなあ」みたいな感じかもしれませんが、「学習性無力感」に折れてしまわない…っていうメンタルを鍛えるというのか、まあ、「七転び八起き」とか、「一歩下がって二歩進む」みたいな気持ちで何事にも向き合わないと「あ、やってられない!」という気持ちになって仕方ないですね。これ、私の日常でもあります。

なので、そんな時に役立つのがベランダの植木鉢であって、じっとお花を眺めていることの効果は高く、「そんなことで、カリカリしても仕方ないでしょう」と気持ちを鎮めてくれるような気がします。そろそろ、クリスマスらしいお花を追加してみようかなーとか思案中。活動の合間を見つけて、お店に立ち寄ってみようと思っています。

最新号の市議会レポート「ほうれんそう」はこちらから…。PDFファイルになっています。技術がないので、相変わらず、印刷原稿をそのままアップしているのはご容赦を。2021年秋 岩永ひさかのほうれんそう

「子どもが参加できるといい!」

コロナ禍とはいえ、少し落ち着いてきたところでご近所のみなさまと一緒に登山。最近はウォーキングもさぼり気味なので、久しぶりのハイキングというのか、山道…そして、足を痛めて帰ってきまして、階段昇降が辛いです。筋肉痛ではないですね。膝が痛くなっていて、しばらく安静にしておかねばと思っています。帰り道、いい景色を眺めてきたことなどすっかり忘れてしまうくらい、足が重たかったので。こんなの初めて。

さて、土曜日。「50年後も持続可能な多摩市のために、私たちがいま始めること」というタイトルに恵泉女学園大学で開催された一般社団法人多摩循環型エネルギー協会のシンポジウムというのか、セミナーに参加してきました。高橋真樹さんのお話しはどこだったかで以前にも伺ったことがあるのですが、安定してというか変わらずに「わかりやすい!」。これから私たちがめざし、考えていかなければならないってどういうこと?という視点から、「SDGs」のことを開設してくださったなあという感想。ぜひ、「日本のSDGs:それってほんとにサステナブル? 」は一読しておくべきかなと思います。「人新世の『資本論』」にも通ずる視点から、SDGsのことも捉える必要があるという指摘には同感。そしてまた、うれしかったのは「SDGsウェディングケーキモデル」が紹介されたことですね!

 

 

「私たちの暮らし、すべての活動は健全な地球環境があってこそ成り立つ」。私も6月の議会で取り上げて、これをまちづくりの大前提の考え方に置く必要があることを指摘をしました。SDGsを語るときにもここが肝心であり、ポイントであることを改めて確認することができましたし、市長も今日のセミナーには出席されていましたので、さらに認識を深めてくださったのではないかと期待するものです。何せ、市長の強い思いから発せられたのが「気候非常事態宣言」であり、それを受けて、それなら市長だけでなく、市議会も一緒に…という気運もあっての「多摩市気候非常事態宣言」でもあります。2050年に「二酸化炭素実質ゼロ」をめざしていかなければならず、そのためにやらなければならないことはうーんと山積みになっていると思っていますし、ものすごーい課題が積みあがっていて…「どうするんだろ」って途方に暮れて終わってしまいそうな感もあるのが正直なところ。

しかし、国をあげて取り組んでいかねばならないわけなので、身近なところからできることをコツコツと…やっていくしかありません。これはきっと私たち人間の「生き方」にも関わってくることで、急旋回して何か問題解決できるというものではないことだけは確か。

さて、このセミナーではパネルディスカッションが行われたのですが、中でも中学生の堂々とした発言には驚かされるものですが、中でも「子どもがもっと参加できる場が欲しい」「子どもの意見も聞いてほしい」という意見には思いっきり頷いてしまいました。気候危機を切実に受け止めていく世代。おそらく今以上に厳しい状況に直面するのではないかとも思うとき、やっぱり、彼らを当事者としてもっと大事にしていく必要があると感じたわけです。

ちょうど、今日は市長公約でもあった「(仮称)子ども・若者総合支援条例」についても12月議会に提出される段取りが整えられたそうで、所管である子ども教育常任委員会の勉強会があったので、同席してきました。「子どもの権利条約」を踏まえつつ、しかし、それだけではない、ものすごい簡単に表現をしてしまえば…出発点は「引きこもり防止」(困難な状況にある子ども・若者)のための支援をしていきましょう…とする観点にたった「切れ目のない子ども・若者支援」とを盛り込んだ内容。条例としては、内容を欲張りすぎた余りに、何がやりたいのか、結局「どっちつかず」的になってしまうのではないか?…という危惧もあるのですが、「両方の観点を無理やりにでも盛り込みなさい」という指示の下で成案されてきたものであることを考えると「労作」と受け止めるしかありません。

「労作」であるがために、その後、この条例を踏まえて、どう進めていくかのリーダーシップや手腕も問われていくことと思いますが、条例をつくり、それを踏まえて、今後は「(仮称)子ども・若者計画」も策定するようですが、条例や計画を作って燃え尽きて終わりにならないようにフォローしていかねばと感じています。

 

いずれにせよ、この条例で「子どもの意見表明権」が今まで以上に重視されていくと思うので、それこそ、「子どもの意見も聞いてほしい」とセミナーに登壇した中学生が「子どもの声を聴いて!」との発言を受け、子どもの未来に直結し、重大に関わっていく「環境基本計画」の策定にあたっても、子どもたちの声を集めるような道筋をつけていかねばならないですね。まさに、「子どもこそが当事者!」とうい視点から、2050年脱炭素社会に向けた取り組みを構築していきたいものです。

<子ども>と<みらい>を真ん中に。

秋の恵み。秋の収穫祭に参加したような気分になれるいただきもの。私は、ジャガイモよりもサツマイモ派です。少しベランダで秋風にあてて、寝かせてからいただくとします。ありがたいです。不揃いでいろんな形があって、個性的。畑から収穫したての野菜たちをいただくと、本当においしくて、見た目は関係ないのですね。手をかけて、大切に育ててきた野菜を見ていると、子育ても同じことではないか…とか思うんですね。

ということで、夕刻から教育委員会が主催の「教育支援フォーラム2021」の足を運びました。多摩市の不登校に関する取り組みの発表会ですね…昨年策定した「不登校総合対策」をもとにしながらのパネルディスカッションを聴くのが目的でした。ご多分に漏れずというのか、コロナ禍意識で「短時間」を意識したフォーラムはあらかじめ、「1時間10分」という時間設定だったので、どんな運びになるのやら…と思っていたのですが、「もっと突っ込んで話を聴きたい…」というところで以上閉会になってしまったのが惜しい…でも、ギュッと凝縮されていたパネルディスカッションであって、聴きたかったことのエッセンスは聴けたかなあという印象でした。次の議会では、不登校特例校の設置を再検討する間にも必要な対応にどう取り組むのかを質問するつもりなので、参考になるお話しを伺うことができました。ただ、どちらかというと、考え方を学ぶ場だったので…具体的に「じゃあ、どうするのか?」という点についてはもっと深めていく必要があり、行動計画として落とし込んでいかねばなりません。

「話は理解できた」だけでは、結局、何も変わらないわけですから、「どう動くの?」が問われますね。一足飛びにはいかないところもあるかなと思いつつ、でもやっぱり、子どもの成長は日々日々…であることを念頭に置くべきですね。私たち大人の協議が整うことをじっと待っていてはくれません。取り組みの「質」を向上させていかなければならないと感じていることは、昨日も記したとおりです。

つくづく思うのは、「子どもとその未来」について私たちはどこまで考えているのか…ということです。改めて「子どもと未来を真ん中に」していかねばならないと思うのは、いつか地球に住めなくなってしまうかもしれないという思いに駆られるような報道に触れる機会が多いからかもしれません。

新型コロナウイルスのような未知のウイルスのことに対しても、私たちは油断できないことを学び、そしてまた、ウイルスもまた地球上の生き物のうちにあることを認識しなければならない。生態系の一部にあり、生物多様性を語るときに排除してはならない存在であることも私たちは強く意識させられているのだと思っています。

こんなにマスクだらけの世界になってしまい、誰が誰だか顔がよくわからない、表情もよくわからない…その状況に「恐怖感」を覚えている子ども、そして、人との信頼関係もマスクによって遮断され、作りにくくなっているのではないかと思います。パネルディスカッションで「小学校1年生は壁を向いて給食を食べることが‘当たり前’になっていて」…という指摘があったのですが、「黙食」というパソコンではうまく変換できない言葉までが定着してしまった世の中にあって…私たちが今まで当たり前だと思ってきた子どもたちの健やかな成長がどれほど阻まれているのか…ということなんですよね。

そして「今だけ、金だけ、自分だけ」…。「自分はそうはなっていない」ではなく、「自分だけは違う」なんてことではなく、「そこに巻き込まれそうになっている自分もいて、巻き込まれている自分もいるかもしれない」と問うことの必要性も感じています。結局、直接的であるとか間接的であるとかには関わりなく、「子ども」はもちろんのこと、弱い立場に配慮できているとは言い難い社会の一員であることには変わりないので。

さて、今日のパネルディスカッションの最後のところでは「顔を合わせて、つながりをつくっていくことが大切」と締めくくられ、何とも、優等生的なまとめかた…に「よくできました」ってハナマルついちゃいそう。では、そこを起点に何ができるのか、あるいは、何ができていて、何ができていないのかを改めて総括してみたいと思っています。

黙々とやるべきことをこなしている姿。

今年もいつもの風景を。「ようこそ!」ですね。だんだんと陽だまりにありがたさを感じる季節になってきたなあと思います。夏のガンガン日照りの時には駐車場も日影が良いと探してしまうのですが、ちょうどよく日当たりのいい駐車スペースがあると、そちらに停めたくなりますね。

しかし、ちょうどその対民舞だったのかもしれませんが、時々は首をあげることもあるけれど、ひたすらひたすら雑草を食べ続けていて、わき目も降らずに自らの任務に没頭していて素晴らしい。これも、あれも…といろんなことが気になって、注意散漫にもなっている私とは違うなとか思いながら、そーっと一枚だけ写真撮影して立ち去りましたが、その集中力を分けてほしい。

次の議会に向けても、少しずつ調査活動など進めていて、市民の方から聞き取りをして、現状の理解をはじめ、「どうあったらいいのか」について助言をもらったり、あとは質問事項をまとめるために担当課からも話を伺ったり…一足飛びにはいかないことの方が多いのですが、取り組みの方向性を一致させながら、どんな取り組みができるのかを考える作業が求められるなあと思っています。とにかく「資源」はいつも有限。お金も、人も…という感じですね。新しいことに取り組むためには、従来からの取り組みを総括すること無しには進まないのかなとますます考えていて、パルテノン多摩とか図書館とか…あとは暫定利用していた東永山小学校の機能を北貝取小学校に移転させていくとか、「ごっついお金、かかりますなあ」(関西風に)と思うとき、「新たな取組」といっても財源を捻りだすところから始めなければならず。

「国とか東京都から補助金とか引っ張ってこれば」

といっても、結局、どれもこれも、税金であることには変わりないけどなあ…と。そんなにアテにもしていられないような状況であることを認識しておく必要がありますし、巡り巡ってのことであって、すべて私たちの負担で成り立っていることを忘れてはならないよなあと思うものです。

そういえば、国全体のことですが、介護にかかる費用の総額が過去最多となり約10兆7800億円という数字に、あっという間に11兆円台にまで達していくのだろう…と思うのですが、負担しきれるのだろうか?…私たちは…とか、高齢者の皆さんは…と。今日も年金が少ないし、いろんなことにお金がかかって…というお電話をいただいたのです。お話しされることをただただ伺うことしかできずなのですが、「いつまでここにいるのかなあと思う」とか「天国が近いのかなあ」とか「息子や娘には迷惑はかけられないので」…と日々の懸命な暮らしぶりに、少なくない歳を重ねた方々の共通の想いではないかとも受け止めるので精いっぱいで私も苦しくなりますね。また、前年度よりも自死を選んだ女性が増えたことのニュースにも「何もできていない」という暗澹たる気持ちにもなっています。新型コロナで職を失ってしまった方が身近にもいるので。

そして、子どもたちの抱える問題も本当に深刻。不登校対策もていねいに取り組む必要があり、そこにはやっぱり「人」が必要であると感じています。頭数いればいい…という問題でもなく、「政策の質」をあげていく視点が欠かせない気がしています。やっぱり、私よりも、もっともっと先を生きてくれる、より長く未来を生きてくれる子どもたちの健やかな育ちを応援してこそだと思うんですね。今夏に一旦中断したというのか、再検討のために立ち止まりをした不登校特例校設置についても、市教委は練り直しを進めているようですが、再検討している間にただただ現状が続くだけ…という保留状態になってしまうのも困ります。不登校特例校が設置できたらよいけれど、もし、設置することが難しい場合には別の選択肢や課題解決方法を見出していくことも必要かもしれないな…とも思ったりします。「質」を高める視点が欠かせない。

これ、環境配慮型イルミネーション…。太陽光パネルがゴーンとついていて、ちょっとインパクトがありました。また、暗くなってから見てみたい。イルミネーションも省エネで…ということなのですが、LEDの光と植物との関係は大丈夫なのか?…というとっても難しい問い合わせが来たことが思い出されます。電飾をすることと植物への負担と。やっぱり動植物には体内時計というものがあるので。まあ、夜は「きれいー」になると言えばなるのですが、しかし昼間はやっぱりちょっと…というのも一理ありますね…。

 

今日の朝日新聞の夕刊に「公共劇場 新しい実験」という記事があり、とても興味深いものでした。パルテノン多摩には「劇場」以外の役割もあるわけですが、結局、最終的に問われる「公共ホール」としての役割をどのように果たそうとしているのか…そこにどんなビジョンがあるのか問われそうですね。素人にはなかなか見えてこないところで、知見豊かな専門人材を登用したことの意味やらがグッと表れてくるとよいなあと思っているのですが、多摩市文化振興財団の動きもフォローしておかないといけない。

 

という風に、私、頭の中がカオスなんです。黙々とやるべきことだけに集中できるっていう環境がうらやましさを感じつつ、白やぎの姿は憧れかもしれないと写真を眺めつつ…。ああ、年賀状が販売されているのか…に気がついて、気持ちばかりがどんどん急いてくるのでした。

そんな時は、コンビニスイーツで一息入れましょう。

選挙も終わって、今日から11月。

前回よりは少しだけ投票率が上がり、しかし、戦後3番目に低い投票率だった昨日の選挙。多摩市にとっての結果を見れば、21選挙区と23選挙区ともに小選挙区での当選と比例区での当選と…結果的には前職が全員当選ということになりました。自民党の小田原きよしさん、小倉まさのぶさん、立憲民主党の大河原まさこさん、伊藤俊輔さん、引き続き、多摩市民と国政をつなぐ架け橋になってくださることを大いに期待しています。

多摩市だけの結果を見れば、21選挙区は与党候補よりも与党以外候補が票数を上回り、23選挙区は与野党一騎打ちで野党共闘候補の票数が上回っていたところには着目しておきたいと思います。

いずれにせよ、選挙で掴むことのできる「民意」。結果を最大限尊重すべきと思う一方で、「投票には行かない」「投票しない」選択をする大勢がいることもまた受け止めておく必要があります。これは議員の一端にいる私も。しかし、「民意」とは何か。SNSなどによっても世論が簡単に操作(という表現は適切ではないかもしれないが)できるような時代となり、ますますあいまいで、見えにくくなっているようにも感じます。

議員にになったころから、ずっと…市議会議員選挙の場合には50%にも満たない投票率で選ばれていることへの後ろめたさがあり、今ももちろんその気持ちを背負うことを忘れずに活動することが大事だと思っているのですが、先輩議員から「選ばれた私たちは正当性があるんだ」ということを語気強く言われたことを思い出します。確かに選挙で選ばれたということの「正当性」はあるのですが、一方、半数以上の人が投票に行っていないという現実に向き合うと、その「正当性」が揺らいでいるようにも思えて仕方がないのです。

「選ばれたとたん」というよりか、選挙が終われば「投票率をあげましょう」と言って呼びかけていたことを忘れてしまったかのように元通りになる。また、「上から目線の政治」になってしまうようではますます市民と政治との距離は離れていくように感じています。今回の選挙結果を見てみると、多少世代交代しつつあることを感じつつも、まだまだ与野党問わずに「上から目線」のロートルが牛耳っているような感が否めないことにちょっとガックリ。特に与党というのか自民党の「少数派意見も尊重するのが民主主義」という点をさっぱり考慮もしてくれないような国会運営というのか、ロートルの皆さんたちの振る舞いばかりが目についてしまうので(これはマスコミ報道などで受ける印象の方が大きいかもしれないが)。

選ばれれば正当性が付与され、選ばれた人たちで決めたことにはすべて正当性があるので…。だからこそ、私たちは自分たちの意思を一票に託し、選挙を通じて、「決める場」に人を送り込む(代弁者)。一票の価値というのか、「選挙がなぜ重要であるのか」についても私たちはあまり意識していないのかもしれません。すべての人に選挙権がなかった時代がある。投票する権利もまた「当たり前」ではなく、そこには「勝ち取ってきた歴史」があるのですが。「女性参政権」のこと一つとっても、その歴史を考えるとやっぱり重たいと思うのです。

それにしても、「投票には行かない」という選択。

政治への諦め、不信感、やがては愛想をつかし、我関せずになってしまうのか…。「結局、投票に行けなかった」という声があることを心にとめておきたいものです。

今回は「未来選択選挙」という呼びかけもありましたが、低投票率を受けとめると、選択した人もいる一方で、選択しない大勢があることも感じつつ、「選択しないことを選んだ」ということの意味を問い続けながら、政治を進めてほしいものです。一つひとつていねいに向き合い、取り組んでいく。私自身もまたその問いを忘れずに活動を続けたいと思っています。

無関心であっても無関係ではいられないのが「政治」。

10月下旬に配布予定だった市議会レポート、今日から配布しています。「少し内容が難しかった」「言葉がわかりにくかった」という感想がさっそく届いています。なるべくわかりやすく書きたいと思っているのですが、まだまだ修行不足ですね。次の号から、もっと注意深く推敲したり、内容も検討したいと思っています。