2024年第2回定例会  本会議3日目_一般質問

おすすめされた本を読み始めたのですが、「アメリカに移住すると、おとなは子どもになり、子どもは大人になる。」「英語を使う用事はみんなぼくの仕事になった。父さんが子どもになって、子どものぼくが大人になったんだ」「伯父さんは部落の最長老だったけど、こっちに来た途端に子どもになった。」…って、子どもの感性を忘れることなく、こんな風に綴ることができる大人がいることが素晴らしすぎる。

さて、今日も一般質問があったのですが、改めて考えさせられたことがありました。自戒を込めて書いてみます。

私たち議員は市民から寄せられる声などをもとに、議会質問をつくっていきます。もちろん、自分自身が課題だと感じていることがあれば、それについて、市民がどう思っているのか等、ヒアリングしたりすることは当然のことです。独りよがりの意見にならないように高めていく必要があるからです。市民から寄せられるお願いごと、あるいは困りごとがあるとして、それを解決していくためにどうすべきなのか、そこに、政策的な課題はどう見出していくかについては、市民からの声だけを鵜呑みにするのではなく、さらに自分で調べていくことも必要で、行政へのヒアリングなどをもとに考えていくことも必須です。なぜなら、市民全体にも課題を共通化していけるかどうかを念頭にして取り組むことが必要かな…と私は思っているからです。

古い時代とは違って、今は格段に市民の声を聴くようになっているのが行政。すでに課題感を持っている場合もあり、共通認識を持てている場合には安心もしますし、議員が指摘するまでもなく解決策が考えられつつある場合もあります。私が議員になった時に比べれば、ホント、飛躍的にというか、市民全体の声を客観的に掴もうする努力はなされている印象はあります(まあ、そうではない場合もあるにはありますが)。多摩市の場合には自治基本条例もあって、そのおかげも少しはあるかな。

いずれにせよ、客観的に捉えることが私たち議員にも求められ、例え、地域固有の課題であっても、全体として捉えたうえで政策課題の一つに高めていけるかどうかが問われているとも言えます。とにかく、議員が議場で発言するということは行政にとってはすごく重たいものなので、「個人性の高すぎる問題」であっても、「全体性を帯びてしまう」ことを自覚していくことが求められる気がしています。

特に、福祉や教育の課題というのは難しい。一人ひとりに寄り添う対応が求められる個別案件の場合も多いからです。もちろん、個々の問題については、行政が気が付いていないあるいは見逃している問題もあり、議員からの指摘などで「初めてわかる、理解される」ことも少なくありません。ただし、その問題が「個人的な課題」で済ますことが許されなかったり、政策的課題として取り上げていくことが必要な場合には議会で取り上げることに大きな意味があります。場合によっては、極めて個人的課題であり、個人性の高い問題だとしても、議員側が意図的にあえて議場で取り上げることもあるでしょうし、あって当然とも思います。

ただ、やっぱり、それを取り上げることの影響を考慮しておくべきであって、全体に知らしめ、共有することの必要性というのか、その課題が本当に全体化されなければならないことであるか含めて、見極めていくべきなのでしょうね。その視点を議員として持ち合わせていくこともまた必要不可欠かなと感じます。本来は「業務」や「仕事」として対応しなければならないのに、放置していたなどなど、不適切にしか対応できていないものがあったとすれば、そこは議場できちんと指摘されるべきで、行政が恥をかくから…ということに忖度とか、遠慮することはないと考えていますが、それが本当に「不適切対応」と言えるのかどうかについても、よくよくリサーチしたり、見極めていくことをしなければなりません。

 

一般質問というのはなかなか難しいものだなと…考えさせられます。「議場で何をどう取り上げるのか」について、限られた発言時間で、議員個々人に与えられた市民のための貴重な発言時間です。個人を誹謗中傷することなく良識の範囲で自由に発言することは大事なことには違いがないのです。一方で、行政にとってみれば、単なる議員からの「理不尽な陳情」にしかならないようにしていく…「まあ、自分は完璧です…」というつもりなど毛頭もなく、自分自身もまだまだ全然鍛錬していかねばならないと反省することも多いですが、今日は自分自身の活動をも振り返る時間を得た一日でもありました。それはそれで有意義な日。

 

さらに、今日印象的だったこととして…「ちょっと一言」と市長が挙手をして、議員が求めなくとも答弁する場面があったこと。官僚がガッツリ、一字一句コンクリートした答弁書をツラツラ読むのとは違って、市長が自分自身で(答弁書の範囲は大幅に逸脱するようなことは無くても)、自分の言葉で発するというのは大事。なので、議員側が「市長に答弁を求めます」としなくても答弁するというのは否定すべきことでなく、いい傾向とは思います。とは言え、阿部市長は話し始めると、知識が豊富だったり思いが溢れるために、それが丁寧(長ったらしい…という人もいますが)すぎたりもするのです。私はそこは阿部市長の良さであり個性として捉えているのですが。でも、場合によっては、議員側が「市長からの答弁など不要」…とか、あえて市長から答えてほしくない場合もあり、「出てきてくれなくていい」と考えているのに、ひょっこりお出ましされるともなれば、心外…そのためにも発言時間というのは残り30秒ほどを残しておいて、何かが起こった時のためにお取り置きしておくことが大事です。想定外にも市長が答弁した場合にも、「出てこられて迷惑」を表明できる発言できる時間があるのが「吉」。

ところで、初日に一般質問で私が取りあげた「PTA」問題ですが、今日は荒谷さんも「保護者負担の軽減」に触れておられ、明日は遠藤さんからも「PTA改革」への提案がされる様子。そのくらい厳しい状況になっている証ですね。PTA会長職を二人で分担しながら、何とか活動をやりこなしているような学校もあるのが実態です。「昔ながら」はもう通用しないことを改めて確認しておきたいですね。一方、PTA活動は「保護者がバラバラではなく、まとまって子どもたちの利益のために動く組織」でもあって、その存在意義は大きいし、今でもその価値は変わらないと私は思っています。もし、PTAがなくなってしまうと、学校なりに保護者として意見を述べるルートがどう確保されていくのかな…と。保護者が個人で動くとなれば、問題が全体化されることなく、単なる「個人的意見」として矮小化されてしまう可能性もあるかもしれません。学校のご都合で「取扱い」が決まるようなことがあっても大変。保護者が今後困ることが無いように、どう対応できるのかは課題です。「みんなで話し合って考える場」でもあったPTAの大事さを強調することが、もうひと昔前であって、「昭和」なのかもしれませんが…。難しい。

とりあえず帰宅して。あんこ。洋菓子から和菓子へどんどんシフトしていく今日この頃ですが、アイスクリーム売り場に立ち寄りたくなる季節ですね。