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2009年05月07日

「でも、ほっとした。」に込められた意味。

 知的のハンディをもつ保護者の方々を中心にして活動している「多摩市手をつなぐ親の会」の第41回目の総会がありましたので来賓あいさつのみ参加をしました。毎年は活動状況を知ることもできるので全部の時間に出席しているのですが、今回はごめんなさい・・・・都議会議員選挙まで残り70日を切って、時間のやりくり厳しいので・・・・という事情でした。「挨拶のみ」で立ち去るのも後ろ髪ひかれる感じです。

 さて、会の冒頭での会長さんの挨拶が非常に印象に残るものでした。「職員の現場の苦労も重々承知をしているので申し訳ないなあと言う気持ちもあるけれど、でも、正直、3月の定例会で修正案が可決してほっとした。」というのです。

 当事者団体として窓口の職員の方々との日々の交渉など重ね、職員の苦労や努力などを垣間見ることも多い、そして感謝も覚えている立場としては「要求ばかりをすることもできない。」という気持ちもあるのでしょう。市の台所事情の苦しさ厳しさにも当然ながら理解は及ぶでしょうし。でも、そんなにあっさりと理解良くなってしまっては・・・・・という思いを持たずにはいられない現実が存在するということなのでしょうね。
 「ここで立ち止まってもう一度当事者の立場に立ってきちんと発言し、行動もしていきたいと思った。」「福祉はおざなりの言葉では語ることができない。」という挨拶を締めくくる一言は参加者に重く響くことばだったように思います。

 市議会の修正案可決については今でもさまざまな評価があるとは感じます。福祉や教育など「聖域を設けずに見直していく」ことが持続可能な安定的な市政運営には不可欠だと主張する立場の方々の意見も決して理解できないわけではありません。そういう意味では私はあれは一つの通過点に過ぎず、実はこれからがより問われてくるのだと思っていて、議会として状況をきちんととらえて議論していくこと抜きには進めないだろうと考えています。

 そんな中で、修正案可決に「でも、ほっとした。」という気持ちは当事者として抱えている語りつくせない切実さに一瞬でも深呼吸できたということと理解したのですが、障害者を取り巻く状況、その家族の抱える察するに易しというわけではありません。議会として状況をきちんととらえるということも簡単ではなく、事情千差万別の市民の方々の一人ひとりの思いを受け止めていく必要性の認識はあっても、簡単に「それが出来得る」と言い切ることもできないでしょう。

 そして、仮に市民の思いを受け止めることができたにせよ、その思いをすべてすべてかなえることができないときに下さなければならない苦渋の選択があることも事実です。「福祉をおざなりな言葉では語れない。」・・・・私たちに投げかけられた宿題は大きいですね。
 

 その後、市長挨拶があり、もともと自身が提案した予算内容の説明が朗々と述べられました。苦労して予算編成をしたことや自分なりに福祉サービスの充実の視点で取り組んできたことを強調していました。市長の一生懸命さは理解しないわけではないけれど、「ほっとした」という会長さんの挨拶は市長にはどう響いたのかが感じられなかったのが残念。「福祉施策についても胸襟開いて大いに議論をしていきたい。」と最後に締めくくったのですが、市長の言葉がどことなく空しくて複雑でした。「地域で共に生きていくために」・・・市長もそのことは重要課題だとの認識を繰り返し強調はしていました。でも、「ほっとした。」・・・・裏を返せば切羽詰まっている状況、生きにくさ息苦しさに今は「ほっとできない状況」・・・・そのことに対する市長の言葉かけが欲しかったな。


 まあ、そんな言葉かけをしていられる余裕のないほどの厳しい現実が市長には突きつけられているのかもしれませんが・・・・。

投稿者 hisaka : 2009年05月07日

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