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2009年01月07日

他人事ではない。

 テレビや新聞報道のニュースに一喜一憂することはあっても、悲しいニュースなどをどこまで現実的に受け止められているのかと言えば、実際のところ私も含めてですが、「他人事」としてしまっていることが多いと思います。それは悪いことではなくて、なかなかリアリティを掴み取ることができないのも現実で、そこを責めることはできません。

 知人からのメールが届きました。「まさか、昨年を象徴するような悲惨な事故が自分の身のまわりで起こるとは思いもしませんでしたし、その被害者が友人だなんて、やり場のない悲しみと怒りで、そして、このなんとも言えない閉塞感。窒息しそうなくやしさ、息苦しさを友人たちと共有しています。」
 ご友人の方がひき逃げ事故で亡くなられたのです。その方は争いを嫌い、子どもたちの未来が平和なものであるよう、とメッセージ性のある子ども服などを手がけるデザイナーをなさっていたそうです。


 「まさか・・・・・思いもしませんでした。」


 知人のこの一文が心に刺さりました。そう・・・私たちは「まさか・・・自分には」という気持ちがいつもどこかであり、その気持ちが無関心につながっている場合も多いですよね。ひき逃げ事故が発生したのは年末。知人は年末年始と事故現場周辺で目撃情報を集めるためのビラまきをしたのだそうです。でも、その現場でまた社会の冷たさを感じたと。確かにご友人は歩道のないところを渡ろうとしていたそうで、それが事実かもしれません。でも、ひき逃げをされてしまった・・・・・命を失ってしまったのです。命を失うというのは、それがいかなる状況であっても悲しいことですよね。しかし、ビラをまいていた友人は「歩道ないところを渡るほうが悪い。」という言葉を浴びせられたとか。

 想像をしてしまいます。心無い言葉、やり場のない怒り・・・・・。「命を失う」ということにこんなにも鈍感になってしまっていいのでしょうか。知人から届いたメールを何度も何度も読み返し、殺伐とした空気に私自身が息苦しくなってきます。


 「いつ、どこで・・・私も当事者になるかもしれない。」

 今は他人事でしかないことも、どこのどんなきっかけかで「自分事」になり、当事者になることもあるのだと思います。事の大小はあったとしても、そういう状況を誰しもが一度くらいは味わったこともあるような気がするのです。だから、私は他人にやさしくなれるんじゃないかなぁって思うのですが、それは違うのでしょうか。
 実は、それって政治に携わる人の原点になければいけない気持ちの一つのような気がしています。知人のメールに改めてその思いを強くしたのでした。

 ところで、「政治は生活」と言っておきながらもなかなかそのリアリティが掴めずに政治が一部の人のものになっているかのような、政治と生活がどのようにつながっていくのかもわからない・・・・そんな思いで様々な情報を見つめている人も多いのではないかと感じます。それは受け止め方の問題?

 何となく「自分には関係なさそうだ。」「あんまり興味も関心もない。」と・・・・政治への無関心につながっている気がしてしまいます。本当は税金もしっかりと払っているし、関係も密接であるのに。これも「他人事」の気分ですよね。


 でも、これについて「受け止め方」の問題と片付けてしまってはいけないですよね。それは、「命を失う」ことへの鈍感さも決して受け止め方の問題としてだけで終わらせてしまってはならないことと同様です。
 どうして、そういう受け止め方しかできなくなってしまったのでしょうね?一番はそこが問題です。それを考えるとやっぱりどこかこの社会の「教育」が子どもたちに伝え切れていないものがあると思えて仕方ないのです。


 「他人事」とはしないで物事を受け止める気持ちは単に感情的に事象を受け止めることとは違います。ただ、そこには他人への思いやりや想像力がなければなりません。私たち大人は子どもたちの想像力をきちんと育てていけるような社会環境をつくれているでしょうか?子どもたちの想像力を歪めてしまうような豊かな広がりを途中で断ち切ってしまうような空気をつくっていないでしょうか?


 この鬱屈として、深呼吸できない空気を変えていきたいものです。


 
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投稿者 hisaka : 2009年01月07日

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