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2008年04月22日

知らなくて済んでしまうことはこわい。

 今日は観念して?・・・・眼科に行きました。昨日は頭痛もするし・・・と活動報告お休みしました。ずっと眼がおかしい、充血する・・・・コンタクトレンズが原因かと思っていたのですが、今朝起きたら目やにで瞼が開かない状態になってしまいました。「ウイルスによる感染」と言われました。目薬を処方してもらって一安心です。


 さて、昨日はストックマネジメント(資産管理)計画と公共施設の配置のあり方特別委員会が開催されていました。ようやく個々個別の公共施設の件について議論に入っているようです。まずは前回から引き続き「やまばとホール」の廃止を射程に入れての検討を進めています。ここで廃止をすることも止む無しとの意見に流れていくかと思っていましたが、そうは簡単にいくものではありません。約500名強規模の「やはばとホール」は大変使い勝手がよく、廃止をすると市民サービスの低下につながるとの強い意見がある限り、特別委員会としての見解を一本化するまでには相当な時間が要しそう。特別委員会では議会として改めて市民に意見を聴くべき・・・という話も出ていたとか。


 民主党TAMAでもこの件では議論の最中ですが、やまばとホールと同規模の施設が市内外にないのか、そこを市民が利用するとしたら利用料金はどのくら必要なのか・・・を含めて検討すること、そして仮に「やまばとホールを廃止するのであれば」、例えば市民が利用する際には一定の補助をするなど対応策を検討することもできそうだと考えています。
 しかし、ここからは個人的な見解になりますが、補助をするにしても補助率、補助額を決めるための基準をどう作るのかが悩ましいと感じます。市内の公共施設を利用する際にも使用料が発生しますが、その使用料徴収の基準、そしてまた使用料設定の考え方をどのように当てはめることができるのでしょうか。納得のできるルールが必要です。新たな理屈づくり?がになるのかもしれません。
 もちろん「やまばとホール」がなくなることが一つの大きな要因にもなりますが、今でも「やまばとホール」ではなくて市内外の同規模施設を利用して発表会など行っている市民も少なくありません。今、それらの団体が使用する際の補助はありません。施設がなくなるということは市民にとっての損失。でも、その損失が市民活動その他を大きく後退させるものなのかどうか・・・・逆に言えば、新たに補助の制度を設けることが市民活動などの進展にどのくらい大きく寄与するものなのかを考えてみることも必要かなあと思います。もしも廃止をするとなれば、この案件は文教常任委員会での検討事項にもなりますし、私も特別委員会の議論の行方を見守らねばと考えています。
 

 ところで、今日の午後からパルテノン多摩で「六ヶ所村ラプソディ」の上映があったので足を運びました。あわせて監督の鎌仲ひとみさんの話も聞くことができました。基地を抱えているまちと同じように・・・・地元の村民が再処理工場を職場としている・・・・ことの深刻さを思います。
 そして映画の中でインタビューを受けた方が「ここの電力を求めているのは都会の人」という言葉が印象的でした。また、「ここで私らが反対してもはじまらない。ここが決めるわけではないから。」ということもまた心に痛い言葉でした。「誰のために誰の都合でこの場所での再処理が行われているのか。」・・・・この問題は都会で暮らす私たちにとっても他人事ではないはず。六ヶ所村のことを知っているのか知っていないのか・・・いずれにしても騒ぎはなし。ひしひしと私たちの生活には暗い影が忍び寄っていることを感ずるわけで、せめてもと私ができるのは「日常生活でできる地球資源の節約」かなと。私の今の暮らしは当たり前に存在するわけではないことだけ心に留めておきたいですね。

 でも、世の中・・・「知らなくて済んでしまうこと」も多いのかもしれませんが、知らなくて済んでしまうことの脅威ってありますね。気が付いたときには「知らなかった」では済まされないことがたくさんありそうな気がしてなりません。今、ものすごい問題になっている後期高齢者医療制度のこともしかり。だから、情報をきちんと届けていく責任の重さを感じます。市議会の場合も同じです。ただ、一議員のHPだけでは限界ですね。ここはやっぱりあくまでも個人的見解にしかすぎず、独り善がりな面もあるでしょうから。

投稿者 hisaka : 2008年04月22日

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