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2004年06月02日

もっと自由であって欲しいけど。

 卒業式、入学式では一大問題となった「国旗・国歌」の東京都教育委員会の対応。私はもっと「自由」な心を大事にして欲しいなあと思っています。
 このことについて尋ねた議員さんがいます。「君が代の歌詞の意味をどう教えているのですか?逐条的に解説して下さい。」…これについて指導室長の答弁ですが「日本の国歌として尊敬すべきものだと教えています」とのことでした。私も「尊敬すべきもの」なんだと、今日、初めて意識させられましたが、自分の感覚には「尊敬するものですよ。」と言われてもしっくりきません。今の学校ではそのように教えられているのかと思いますが、事実として「国歌」なのかもしれませんが、だから「尊敬する」という考え方には疑問を感じました。
 「歌」には歌詞も含めて、曲調もありますが、「好き」「嫌い」があると思いますし、それは人それぞれの感じ方でいいのだと思います。好き嫌いは関係なく、「尊敬しなければなりませんよ。」と言うのは心の自由を考えた時には反すると思います。何らかの理由で「嫌いだな」と思っている先生を、先生なんだから尊敬しなさい!と強要されるのと似ていると思います。

 これは今日の質問のやりとりで疑問と、そして強制されることへの器具を感じたところです。

 ところで、行政評価システムの必要性は高まる一方です。それは全国的な流れでもあります。行政の在り方が問われる中で評価システムを導入することで仕事の質を変えていくことが求められているからだと思います。多摩市でも取り組みが進もうとしています。昨日も書いたことですが、行政の評価をする時に、「議会」という存在をどのように位置づけするのかは課題のひとつです。行政を評価するのは議会だけではありません。むしろ市民がどう評価するのかが大事です。昨日以来、行政評価システムが「市民とのコミュニケーションツール」になることが最終的な目標だと答弁が繰り返されていますが、まったくその通りだと思います。
 今日の質問に対する答えでは「市民の代表としての視点を持った議員の方々からの評価だけでなく、生活者の視点を持った市民からの直接の評価を受けることも必要だし、それは時代の要請だと考えている。」という認識が示されました。これは私の意見とも同じです。議会には「議決権」があります。これがものすごく大きい権力ですし、個々の議員はその重みを感じる必要があります。この議決に参加する権利を持つか持たないのか…議員である市民、議員でない市民の違いです。しかし生活者として意見を持つという意味では対等平等です。それを思えば、もっともっと議員でない市民の意見を取り入れる場所を広げることは、むしろ議員個々人では掬いきれないところまでもカバーするという意味もあるのだと思います。

 この考え方をかたちにすることは容易いことではなく、時間がかかることですが、それでもスピーディな取組みを期待したいですし、議員が自分たちの存在を否定された気分で行政への市民参加と対置していては始まらないと思います。まさに「時代の流れ」「時代の要請」に対応しながら、市民にとってよりベターな状況を目指していくのだとつくづく感じています。

投稿者 hisaka : 2004年06月02日

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