« 巨大マンションの行方は? | メイン | 討論書を書きながら »

2004年03月23日

何を大事していくのか。

 市立多摩幼稚園の存続問題、今日は文教常任委員会にて陳情の審査が行なわれました。これについては公立幼稚園の存在意義から議論をしなくてはなりませんが、何しろ行財政再構築プランの中で2005年度末にて廃止の方針が出されたことが最も大きな焦点になっている問題です。

 最近、さまざま議会の中では他の会派の人が私たちの会派の部屋を訪れます。昨日の建設環境常任委員会の時にも私たちの会派がどんな結論を出すのかについて事前に打診がありました。私たちはもともと「採択」しか結論はないと考えていたので、最後までその旨を伝えていました。あくまでも私たちは自分たちの判断を第一優先にしたいし貫こうとと考えていたからです。これと同じように、予算特別委員会の時には「民主・ネットが修正案に乗るならば、修正案を出しますが、もしそうでなければ、うちの会派としても考え直して、おそらく会派内では可決と否決がばらばらになります。」との話がありました。私たちが修正を出す出さないは無関係で、「出す」と判断をするならば提出をすればいいと思いますが、政治的な決着とはそういう綺麗事を言っていられないのでしょうか?
 
 今日はもっと最悪です。「結果的に民主・ネットの判断が委員会の決定を規定する」とまで言われてしまうのです。私はそういう議員間での裏工作に嫌気がさします。私たちの判断は私たちの判断。委員会ではそれぞれ会派の立場で議論をすればいいと思います。だからずっと「委員会での議論を見てから」と答えてきました。休憩が入る度に、各方面から部屋に足を運ぶ人が…。「あなた方がはっきりしないと困る。」と自分たちの態度表明はしないのに、聞かれてもこっちのほうが困ります。・…挙句の果てには市長までが会派の部屋にやって来ました。共産党と新政クラブ以外の会派の代表が私たちの部屋に結集する異様な光景でした。何て場所にいるんだろう…私は…と思いました。
 昨日以来「せっかくの署名もあるし、いいところで決着をつけたいので、考え方を聞かせて欲しい。」と再三再度迫られてきました。おかしな話です。自分たちの立場を明らかにしないままに「民主・ネットはどうするのか?」と尋ねられると、私たち会派の意見でそれぞれの会派の意見が左右されるの???と本当におかしさを感じます。私たちの会派は周りから「どうするのか?」と迫られれば迫られるほど判断を留保したくなります。まるで天邪鬼ですが、変な迫られ方をすればするほど意固地になるのは当然です。予算の修正案の時も今日も同じ気持ちでした。私たちの会派の意見を問う前に、まずは自らの立場と考えを表明してもらいたい、それに私たちが賛同出来るかどうかは後からの話だと考えます。
 そのことが態度が曖昧だとか責任を持たないととハッパかけられる事態を招くわけですが、こういう裏工作には「いいかげんにして!」と言いたくなります。
 
 でも、私から見ればさすがに人生経験豊富な年配者は匠だなと思います。正直「ずるい」とも思います。そういう「ずるさ」に振りまわされ、渦中に置かれている自分に心底情けなさを感じる日々が続いています。「ずるさ」には「ずるさ」で対抗するしかないのかもしれません。 それにしても議会の中で政策論争がほとんど行なわれていない現状には自分自身のあり方そのものを問うているところです。
 政治力学ばかりに振りまわされて本来すべきことを見失ってはならないと思います。

 多摩幼稚園の存続問題に関しての陳情は、現在市の方針として示されている2005年度末廃止を白紙撤回してもらいたい主旨です。陳情者によると「永久存続ありき」ではなく、教育的な観点も含めて再度議論をしなおしてもらいたい、あまりにも性急な廃園方針の撤回を求めるものです。

 これについても昨日から「民主・ネットの判断はどうするのか?」と再三にわたって聞かれてきました。私たちの判断は無関係で委員会のメンバーで結論を出せばいいのにと思います。「3万人の署名があるんだし、これを不採択には出来ない。署名をした人たちの気持ちを大事にしたい。」と言われましたが、そんなことは誰しも当たり前のことです。でも、私はむしろ署名の数よりも重要な事は陳情の中味だと思っています。署名数はもちろん一つの判断基準、材料としてはウエイトを占めることは確かです。しかし「多い・少ない」についての基準があるわけではありません。直接請求を考えてみて、有権者の50分の1の署名が要件は一つの指標になるのかもしれませんが、それにしても私はこの要件の根拠を調べたこともなく、またこの要件が果たして本当に適当なのかもよくわかりません。結局は署名数にとらわれすぎないことが重要というのが私の考えです。これはあくまでも私個人の見解ですが、署名数は参考にはなるけれど絶対的な決め手として判断はしないのが私の姿勢です。
 今回の場合は3万人を上回る署名集めを子どもを連れながら一生懸命取組んだ市民の姿があったことは心に刻むべきことと考えています。

 この市立幼稚園の存廃問題ではとにかく行政側の手続の不備は誰もが認めるところだと考えています。ただ行政側は自分の非を認めることはあり得ないので、今日の質疑の中でもとにかく「ご理解頂きたい」の一点張り」でした。(ちなみにこれは行財政白書や再構築プランを作成した企画部からの発言です。)もちろん新しい財政需要への対応で子育て施策全般の再構築が必要で、そのためには財政状況も勘案して公立幼稚園の一定の役割終了としてピリオドを打ちたい行政の方針は理解できます。「大変苦渋な判断を迫られた。」と繰返し強調をしていました。なるほど苦しい立場で色々な判断をしていることは理解できました。

 私たちの会派では文教常任委員会のメンバーがいないので事の始終を傍聴していました。議論の中で鮮明になったのは教育委員会と市長部局との意思疎通が全く図られていないことだったように思います。教育委員会にとっても昨年12月に突然出された2005年度末廃園の方針はほとんど「寝耳に水」状態だったような印象を受けました。部長の答弁の中でも「正直、2005年度末廃園は予想外のことで、想定していなかった。」とありました。だからこそ園児募集を通常通りの手続で行なってきた事実があります。

 市長部局が「苦渋な選択」と言っていましたが、私は同情するわけではありませんが教育委員会の方がそれこそ「苦い汁」を飲まされて、矢面に立たされたと思っています。
 少なくとも昨年夏の白書が出された段階で公立幼稚園を3年以内に廃止すると方向性が打ち出されていました。でも、それが今年4月の園児募集では何ら廃園時期などの方針は確定していませんでした。白書を気にかけて「存廃がどうなるのか?」を尋ねた市民に対しても明確な回答を出せなかったことは事実です。方針がはっきりしないままに園児を募集したことで、市民の不安を招いたことは免れません。最終的に園児募集をしても、定員割れをしてしまいました。これについて教育委員会は「白書などでの市民の不安の表れだと受けとめている」と言っていました。
 ところが市長部局ではこの定員割れを格好の材料とするかのように、応募状況を見ても公立幼稚園をこのまま存続させるわけにはいかないと考えたと説明していました。なぜこういう応募状況になっているかの方が重要だと思いますが、全くそこは度外視。私は市長判断の甘さを感じています。

 幼稚園の存廃問題はさかのぼること、一昨年夏のある議員の議会報告チラシが引き金になりました。まだ行政の方針が何ら公表されていないにも関わらず幼稚園廃止の噂が一気に広まって収集つかなくなっていたことも事実です。市民の多大な混乱を招き、擦った揉んだして今に至っているのです。
 今日の説明の中で、公立幼稚園に通っている園児は6歳以下の子どもの2%くらいであると示されました。市側はこの数値について「たった2%」として捉えている表現していましたが、私は「たかが2%、されど2%」だと思います。この数字を少数だと切り捨てることそのものにも疑問を抱きました。

 市民協働を柱にする…時間もお金もかかります。プロセスこそ重視されるので市民協働を進めたいのなら、時間的コストに覚悟すべきだと思います。今回の陳情ではまさにそこが問われたのだと考えています。これは施政方針でいけば「スピーディに…でもプロセスを大事に」という二律背反の命題なのでしょう。
 
 「どこまでが納得のいく議論で市民合意をとりつけられたと言えるのか?」の判断も難しいと思います。今日の一連の議論も聞き、今までの流れも踏まえ、その内容を吟味したいと考えています。ちなみに委員会での結果は採択3:趣旨採択2となりました。

 何を大事にして行政運営をしていくのか?が問われている。そして何を大事にして議員は判断をしていくのか?改めて考えさせられています。政治的決着のつけどころに関しても、もっと深く考える必要があると思っています。

投稿者 hisaka : 2004年03月23日

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
/658