土曜日からはじまる新年度でしたね。春爛漫を感じる始まりになりました。年度の切り替えはやっぱり、気持ちも新たな出発へ。「いまどきは保護者も入学式に出席するんだなあ」と思いながら、大学生になった娘の入学式へ。会場はほぼ満席。マスク着用を強いられず。こうしたセレモニーが無事に開催できたことにありがたさを感じます。コロナ禍を経て、何だか、こうしたことすべてが「当たり前ではない」という感覚になってます。
昨日は、聖蹟桜ヶ丘と多摩センターで「桜まつり」が開催され、途中で雨が降ってきたり、肌寒さもありましたが、それでも多くの人でにぎわい、特に親子連れもたくさんで、活気のある光景に出会えたことがうれしかったです。多摩センターの桜まつりを主催されていた多摩センター商店会の会長さんによれば「あまり宣伝もしていなかったので、人が集まるかなあ…と少し心配もあった。」とのことでしたが、綿あめにポップコーンと子どもたちへのプレゼントには長蛇の列ができていたそう。
多くの人が待っていたんだろうなあ。渇望していた…とも言えるかもしれませんね。とにかく、待ち望んでいたように思います。寄れる場所がある、集まれる場所がある、交流できる場所がある、体験できる場所がある…人々が行き交う風景ってやっぱりいいなあ。こうした場も「当たり前ではない」ことを感じる今、企画をして、準備をして、実行してと…主催してくださる方々の存在が一段と大きく、そして、ありがたみを強く覚えます。なぜなら、一度中止をしたり、休止をしたものを再開するというのは、それなりのエネルギーを注ぎ込んでいかねばならずで、決してたやすいこととは思えないのです。笑顔のたくさんある週末にエネルギーをもらえた気がします。
ところで、せいせき桜まつりに合わせ、プレ開催という位置づけになっていた「復興フォーラム」にも足を運びました。桜まつり実行委員会に加わる桜ヶ丘商店会連合会のみなさまが中心となり、企画され、継続開催されているものです。今回は「震災から12年、震災や原発事故を風化させない」をテーマに、板倉真琴監督の作品「ひとと原発~失われたふるさと」を視聴し、その後、監督や作品に登場された当事者の皆さん(浪江町にふるさとのある方々で被災者の方々)も参加されたパネルディスカッションが行われました。映画は、被災し、避難されている方々は何を思い、どう暮らしているのか…のインタビューをとりまとめた作品。当事者の方々が語りつくすことのできない胸中を一つひとつ言葉の表現にし、伝えてくださることにも勇気がいるのではないかと感じつつ、見させていただきました。最近は涙腺がすぐに緩みます。
こうした作品は後世に貴重な資料として残っていくと思います。インタビューで、辛い経験、体験を語るというのは自分の気持ちを整理しする作業になる場合もありますが、一方で、自分自身で傷に触ることとも背中合わせだと感じます。
当事者ではない限り、記憶はどんどん風化し、薄れていってしまう。公民館のギャラリーでも関連する展示が行われていましたが、こうした企画が継続されることが私たちにとっても必要なことですね。阿部市長も冒頭の挨拶だけでなく、最後までずっと参加されていました。
「震災はまだ終わっていません」
「大変でしたね。」とか…声かけする言葉がうまく見つからないことが多々ありますが、震災のこと、原発事故のこと…今でもなお「大変」は継続していることを頭の片隅に置いて、私たち自身の日々を営んでいく必要を今一度確認できた気がします。特に原発については「50年後、60年後にいずれ廃炉にしなければならない。被爆しながら廃炉作業を行うのは私たちではない。子どもたちだ。」と板倉監督が穏やかな口調で述べた言葉が印象的でした。また、「浪江はもう大丈夫だから、みんなで戻りましょう。とは言えません。」と映画に登場された当事者の方の本音が私たちへの教訓そのものではないかと思うのです。
子どもたちの未来を考える。ここを常に原点に。