6月議会 一般質問始まってます。

「屋外ではマスクを外してもいい」…文部科学省は「登下校、体育などの時にはマスクを外すこと」と徹底させる方に舵を切ったのに…子どもたちが自らマスクを着用していて、外せなくなっている景色が広がっているようです。悲しい。やっとやっと、子どもが少しはマスクから解放されると胸を撫でおろしいたママたちが涙しています。「外すことが難しくなっていて、無理やり外しなさいって…これも違ってるよね。」って。

そんなやり取りをしていたので、基本的には朝の活動時、マスクは外します。屋外で飛沫を飛ばすほどの会話をしなければ、基本的にはマスクは外しても良いのだから。白田さんとも話し合いをして、「自分たちも苦しいし」というのも一つの理由で、外すことに決めました。

改札に向かう市民の皆さんも…暑くなってきたら、その方が心配なのでマスクを外してくださいね…という気持ちで立つことにしました。そして、改札に入る前、電車に乗る前にはマスクをつけるで良いのではないかなと。「電車内などはマスク推奨」されていますので、それをひとつ目安にしていただけると良いのかなって思います。でも、あくまでも推奨…強制ではないところはポイント。

さて、あまりにも空気の悪い議場でもマスク外してみよう…と思って、しばらく話していましたら、ちゃんと議事係長がやってきて「議場の中はマスクをつけることになってます。」と。ルールに従ってください…をわざわざ言いに来てくださったわけで、「お仕事してる」って感じですね。ですので、時々、外しながら、基本はつけることにしましたが、でもおかしいですよね。飛沫などどこにも飛ばしていない。野次る人はマスクつけてください…ですが、黙って座っているだけなら、くしゃみするとかその時以外はまあ要らない。咳エチケットを意識していれば、そんなにマスクに頼らなくてもと思いますが、一応「ルール」になっているようなので、いちいち抵抗するのはやめます。

今日は5名の議員が一般質問をしました。藤條さんからは「学校でのマスク着用、黙食」についての市教委の見解を質す内容で質問が行われていましたが、今の学校の現状など、実態をどう把握されているのかわからず、一般論で質問していたのかなって印象。

中休みの時間などわざわざ「マスクを外しましょう」のアナウンスをしている学校もありますが、それでも半分の子が外さないで、マスクつけたまま外遊びしているとか…こんな状況が日常になっているのにな。ちなみに市教委は今までも「マスクの強制」はしていない…ただ、実態というか現実問題として「みんなでマスク」になっていて、さらにそこに…この国特有なのかよくわかりませんが、同調圧力も働いている感じ…今は「ウイルスよりも人の視線が怖い」という人さえいるわけで。

続く、石山さんの質問では連光寺6丁目の「農業公園」のことも取り上げていて、農林水産省の「オーガニックファーム構想」のことにも触れる内容でした。市長とも話をしていたのですが「『農』と『農業』は違う」という点を意識しながら、考えていく必要があり、たぶん、今話題になっている場所の「農業公園」では「業はつけられない『農』が求められる」ような気もしているので、そのあたりをきちんと整理し、何のための土地を取得し、みどりを守り、環境保全型農業に取り組むのかを見極めながら、必要な対応をしてほしいと考えています。

岸田さんからは「マイノリティの子どもたち」という視点からの質問があり、日本語指導の必要な子どもたちへの対応が話題の一つに。保護者の方が日本語ができない場合の対応の難しさを聞いたことがありますが、母国語が「英語」だけではありませんので、学校の先生たちだけでは対応しきれない現状があるのは事実。子どもと保護者と、そのご家庭が孤立しないようにフォローしていくにも周りの環境がとても大切ですね。ご近所づきあいを含めてですが、そこもまた地域・コミュニティが問われているところ。個人的にはあまり現状把握しきれいていないところで、機会があれば、実態を学んでおかねばと思った次第です。

大野さんからの質問では「にじーず」のことが取り上げられていましたが、良い活動ですね。その存在を知らせることは重要で、大切なことかもしれません。ただ、良い活動だからと宣伝するかどうか、大々的に知らせるべきかどうかについては議論が分かれそうです。なぜ、「大々的な宣伝を控えがちになるのか」という点にも配慮しておきたいかもしれません。そこにこそ今の社会の問題、課題が浮き彫りになると言えそうです。マイノリティと考えられる立ち位置の皆さんの存在を尊重していくとは、実はとても難しいことであって、アプローチの仕方を間違えるとかえって傷つけることもあり、とてもデリケート。もちろん、行政はこうした問題を無視せず(多摩市はそういう意味では多様性尊重ではかなり意識高いと思うが)、適切に対応をする必要はあります。同じ悩みを抱えている人たちどうしてつながっていくこと、「ひとりではないよ」に勇気をもらえることも多いですから、「にじーず」の存在は重要です。

それにしても、困ったとき、悩んだときにそっと相談できる場所…相談することさえ躊躇してしまうことの方が人間は多いのが現実かもしれません。その意味では、SNSを活用するとか、相談しやすい体制の確保も考えていかねば。「行政だから」の安心感、信頼感があることを忘れてはならないですね。これは、藤條さんが子どものいじめ問題など、もっと気軽に相談できる体制が必要では?と指摘していた点とも重なります。昭和時代からのやり方とは言いませんが、既存の仕組みにしがみついていても解決できなくなっている現状があります。

とはいえ…「相談することに躊躇し、相談せずに抱え込んでしまう」場合が今まで以上に増えていて、そのことがもっともっと深刻な問題ではないかと私は感じています。「相談してもいいんだから」…受援力についても着目されている今日この頃ですね。たくさんの相談場所が開設されて、多様なチャンネルがあっても、そもそも私たち一人ひとりに「受援力」がなければ、たどりつけない。「受援力」にこそ光を当てていきたいかな。

「どうせ、助けてもらえない」…こんな風に社会に対して見切りをつけてしまってる場合もあるのではないか。

私自身が突然に、何とも言えず、とてつもなく不安感を抱いてしまうようなこともあるのです。どうしてこんな社会になってしまったんだろう…と。子どもたちの自殺が増えている現状など話題を聞くたびに重たいものがズドーンと自分自身に。特に女子中学生、高校生たちへのアプローチが求められるような気もしていて、何とかしていかないといけないなと思っていることの一つです。

今日の最後は、斎藤さんの質問で「プログラミング教育」のことが話題になっていましたが、「プログラミング教育」と「プログラミング的思考の育成」がきちんと結びついた時、本物になっていくんだろうなとつくづく思います。しかし、そのことを教員が理解して指導することができているかと言えば…試行錯誤にしかならないのが現実ですよね…多くの場合。なぜなら、教員養成の過程で「プログラミング教育」を学んできたかどうかを問われれば…多くの場合は経験なしで「でも、やらなければならない」「やらされている」のが現実で、先生たちを責めることもできません。先生たちにも同情してしまいます。コロナ禍でいろんなことを見つめ直す機会も多いせいか、私は「学びの本質」ってところも改めて問い直した方が良いのではないかと思いますが、そうはなっていかないですね。

市長が「ニューノーマルな時代」というので、私もこの言葉を気に入って使うことにしました。「ニューノーマルな時代」に私たちは何を考え、どう生きるべきなんでしょうか?そういえば、市長は「ニューノーマル選挙」とか言って、選挙活動していたな。明日も一般質問が続きます。