子ども教育常任委員会で「デジタル教科書」について情報共有する機会があり、各会派からも数名の参加OKということでしたので、同席させていただきました。
光村図書出版の方から直接、お話を伺うことができ、「デジタル教科書」の現在を知ることができたような気がします。実際に、デジタル教科書を使用しながら展開している授業風景などの動画もあり、何となく「ふむふむ」と思う一方で、やっぱり臨場感にかけるので、どこかでデジタル教科書で授業しているところがあれば、見学させてもらいたいと思います。コロナ禍でこうした活動が一切自粛モードになっているのは本当に残念なことです。
私はデジタル教科書で学ぶことが必要な子どもたちがいると思っていて、その子どもたちには今でもデジタル教科書を使わせてあげるべきという思っていますし、実際に、今日も、デモ機でデジタル教科書を拝見したところ、ピンチアウトすることで文字を大きくすることができたり、また、色覚に合わせた色味の調整もできたりするのはとても便利と確認できました。そしてまた、英語の教科書については、ネイティブな発音が単語を学ぶときの助けにもなっていくと思いますし、適切というのか、場に応じた使い方の工夫で子どもたちの習熟度が上がることも大いに期待できる…とも感じます。多摩市は「日本一英語を話せる子どもたちの育成」をめざしているので、その点からも英語のデジタル教科書というのは、中学校3年間でたったの3回しかないオンライン英会話よりも効果の発揮が見込めるのではないのかって思います。
とりあえず、多摩市では子どもたち全員にデジタル教科書…ということではなく、来年度は英語の教科書の補助教材として「指導者用デジタル教科書」を導入する予定のようです。
そういえば…って思い出したのは、他の予定があって聞き逃していた超教育協会のオンラインセミナーで、今日、いらしてくださった光村図書出版の方が講師をつとめておられたこと、思い出しました。
デジタル教科書は、今の「紙」の教科書をただ単に電子化しただけではない使い方ができる…ということで、それはそれは便利になりそうかもしれない。例えば、読み方がわからない感じなども、ちょっと操作をすれば、フリガナが出てきたり、ついでにその意味などについても簡単操作で表示されるようになるかも。
そうなると、辞典って必要なくなりそうですね。
が、私はやっぱり、「辞典」って大事だと思いますね。もちろん、ちょっとした操作で「瞬時にわかる」ということも必要なことかもしれませんが、辞典を引くというのは、引いてみて、目的の言葉なり漢字なりを調べてそれで終わりではないから。その隣に、別の言葉が見つかり、漢字が見つかり…って余計な情報も同時に目にすることができる効果があります。その効果って絶大ではないのかなぁとアナログ世代の私、なおかつ、私は辞典とか見るのが好きだったので、そう思えてなりません。
そんな、オバサンじみたことを言っていても始まらないのかもしれませんが、不必要と思われる中に、無駄と思われる中に…実は不必要ではなく、無駄ではないことがたくさんあるはず…と私は思っています。
デジタル教科書になれば、すべてタブレットの中のアプリだかなんだかで持ち運びできるという点では、荷物軽減にはつながりそう。そうなるのはまだ先かなア…なんて思っていましたが、ここへ来て、急に現実味帯びてきた感じで、自分自身もそのスピードについていくのが大変なことと、その成果がいかに発揮されていくのかの検証をしきれないままにどんどん先々にと電子化が進んでいくことへの脅威も感じております。
「不便」をすべてそぎ落としてしまった世の中って一体どんな世の中になっていくのか?…。多少の不便さとか、手間を必要とする環境こそが、私たちを成長させたり、工夫させたりするのには必要だと思うんだけどなあ。しかし、この流れに抗えないほどの状況や状態にある自分自身を一方で感じていて、そこには葛藤も大きい。その中にあって、つねに「その本質は何なのか?」を見極められるように、しっかり自分を磨いておくべし…(どこかで聞いた言葉だな)。