« ‘正しい?’性教育のあり方 | メイン | 12月議会に向けての議案説明 »

2003年11月18日

30年間育ちすぎた松の木

 午前中に北諏訪小学校の6年生が行った松の間伐採の手伝いをしました。「忙しいだろうけど、もしよかったら、お手伝いに来てね。」と青少協の会長さんに松の伐採の話を聞いたからです。
 私が通っていた頃と比べて、松の背が随分とヒョロ高くなっていて鉛筆のようです。校長先生によると、今から30年前ほど、北諏訪小学校の第1期生たち(保護者ともども)斜面に松を植えたのだそうです。今の校長先生は若い頃にも北諏訪で教鞭をとられていたそうですが、その当時はまだ林業に従事している人や炭焼き小屋もあったという話です。
 今日も地元の人、特に馬引沢地区にはニュータウン造成前からの住人が多いのですが、その方々の協力を得ながら子どもたちとともに間伐採作業をしたのです。
 「地域に住んでいるボランティアの人・・・」という先生の紹介の後、代表の方が「どうして伐採をしなくてはいけないの?」という話をし、とてもわかりやすい説明で子どもたちの関心をぐっとひきつけたように思いました。
 私は・・・といえば、松が植わっている斜面下には遊歩道があるのでそこでの通行人の安全確保などの役目をもらい、あとは各グループ(全部で6班に分かれました)の木を切り倒す様子を見ていました。
 
 生木を切るのはとても大変なんだそうです。子どもたちも随分と苦労しながら、のこぎりを動かしていました。初めはぎこちなさそうな手つきの子どもも、だんだんに面白がっているように遠目からは見えました。やはり木が倒れる瞬間には「うわぁ!」というため息まじりの歓声が上がります。倒れた木を見ると、改めて今まで放置しすぎて手入れをしなかったために、大きくなりすぎているなあと感じるわけです。これで少しは太陽の光が入りやすくなります。
 途中で私の目の前を通った奥様が「まあ、切り倒しているのね。私もこれを植えたのよ。」と言いのこして去っていきました。「せっかく植えたんだけれど、大きくなりすぎたのねえ。」とおっしゃってもいました。何だか妙に歴史を感じてしまいました。

 そして私は自分の小学校時代と比べていました。私の時代よりもはるかに豊かな経験をしていると感じるわけです。というのも松の間伐採はもちろんのことですが、ちょうど集合場所のグランドには夏休み以降に畑が設置されているのですが、その畑からおそらく大根を間引いたのかな?と両手にたくさん持って流しに洗うに走る児童たちの姿も目撃したからです。私の時には教科書通りに小学校1年生でアサガオ、次にヒマワリという風に、あとはヘチマとジャガイモの栽培をした気がするわけですが、畑作業などを体験した覚えがないからです。

 机での勉強だけでなく、体験をたくさんとりいれる学習ということでは随分と充実しているように思いますが、昔はと言えば、別に学校で畑作業をしなくてもいくらでも近所で手伝うことも出来たし、土に触れる機会はイヤというほどあったわけで、その意味では子どもたちが学習することが膨大過ぎて、一年間だけでは足りなさそうに思ってしまいます。少なくとも昔の子どもも、今の子どもも小学校の‘6年間’という時間の長さにおいては平等だからです。

投稿者 hisaka : 2003年11月18日

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
/536