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2003年08月25日

傍聴者の立場から

 今日は朝遊説に始まり、一般質問の通告書を提出、東京ネットのこども部会に出席し、夜は行財政診断市民委員会の傍聴をしました。

 行財政診断市民委員会の傍聴ですが、午後7時からの会議というのは庁舎の冷房がオフになっているので蒸し暑すぎて、頭の働きが鈍くならざるを得ないように思います。昨日までの市民説明会では今日の市民委員会開催もアナウンスされましたが、庁舎の立地条件を考えると、都心から急いで帰宅をした現役会社員が覗いてみようかという気にはならなそう。駅前の公共施設で順番に会議開催をする出前方式、出張会議方式で行うとか、工夫をするのもありだなと思いました。ちなみに傍聴者は5名(うち私を入れて議員は2名)で全員顔なじみ。

 この委員会に求められるのは「多摩市内を知りすぎていない」ということだと思っています。事業、補助金の見直しともに客観的に、多少厳しく、感情抜きにして精査していく必要があることを考えると当然だと思います。委員会のメンバーはそういう人選になっているはずです。その意味では私自身も期待の大きいところです。
 
 ただ、一応は「市民委員会」を名乗ると言う意味で、行政主催の市民説明会にひっそりと参加してもらいたかった気がします。というのは、第1回目の会議の時に、白書に対する市民からの意見なども取り入れながら議論を進めようという意見があったそうですし、昨日も会議が終わりに近づいたころ、せっかく傍聴者の方もいらしているので、感想などを聞いてみたいし…と委員からの発言がありました。この会議は傍聴可能であり、その意味では公開性は担保されている気がしています。
 しかしながら、実は他自治体で同様の見直しを行う市民委員会はクローズで開催されていました。というのは、市民に左右されないで議論をしてもらいたい!という意図があるからでした。市民の顔を意識してしまうことで、議論がダイナミックに進めていけないという懸念があることからクローズでの会議開催をしてきた経緯があります。
「情報共有」という観点からすれば、私は多摩市のように会議の公開をするのは当然だと考えますが、傍聴者を意識するあまりに委員会が萎縮しているとすれば、よろしくないなと思っています。

 ところで、この委員会が萎縮しているか…はわからないのですが、傍聴者としては非常に腹立たしいことがあります。それは委員会のメンバーが白書をどのくらい読みこんでいるのか?についてです。最初は、行政側の白書の記述に問題があり、記載事項とメンバーの理解に誤差が生じるのかと考えたわけですが、再度、白書を読んでみると誤解しようがない部分で、メンバーの認識不足を感じるところが少なくなかったのです。(もちろん全委員について共通して言えることではありませんが、会議全般の印象として受けたことでした。)傍聴者からの発言が出来なかったのですが、途中で何度も「すいません」と挙手してしまいそうになりました。「もう一度、白書を熟読してみて下さい…・」と。
 これを感じたのは私だけではありません。傍聴者全員同じことを思っていました。

 そしてあまりにも時間を意識しすぎてか(あと会議は残り3回)、十分に議論し尽くすところまで至らずして、白書内の課題を解決しようとしていることも問題です。市民委員会への期待が大きい分に見ている側としては不満と言うか、不安です。特に補助金見直しや事業見直しについても、どこまで踏みこんだ議論をしてくれるのだろう…と思って傍聴しているのですが、なかなか期待するような活発な議論展開にはならないのです。他自治体では補助金の見直し期間を3年としているのに「5年くらいがちょうどいい」という意見が出ていて、何だかのんびりしすぎている気もします。それに既に6年前に「多摩市の補助金の現状と見直しについて」という行財政診断委員会の報告書が出されていますが、その存在もあまり知らないようです。もう少し「情報収集」してもらいたい、その上で意見交換してもらいたいと思いました。

 「こういう話題については、なかなか意見を一致させて一本化するのは難しいですから…。」というのが委員長の見解が示されましたが、私自身は意見をしっかり取り纏めて、行政に「バシッ!」とぶつけてもらいたいのですが・…。
八王子や我孫子市へのヒアリングで同様の委員会を開催した時には行政側が「えーっ・・・そんなことまでしちゃっていいの?」みたいに驚かされるような意見もたくさん出たと聞いています。それが委員会の存在意義として最も大きい部分ではないでしょうか?

投稿者 hisaka : 2003年08月25日

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