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2003年07月06日

アレクセイと泉

 オススメ上映会の「アレクセイと泉」を見に行きました。チェルノブイリ原発により地図から名前が消された村で、なおも住み続ける55人の老人とひとりの若者の「今」を淡々と映すドキュメンタリー映画でした。
 村人の暮らしを支える泉。村全体が放射能で汚染されたにも関わらず、なぜか泉の水だけは守られている…放射能が検出されることなく、静かに湧き続けているのです。その泉は村人の心の拠所になり、汚染され滅びるだけの村で生きる人々の心を支えていることが切々と伝わる映像でした。
 上映終了後に監督である本橋成一さんと多摩市在住のフォトジャーナリスト桃井和馬さんとのミニ対談がありました。二人に共通しているのは、現実の姿をそのまま「映す」ことで自分自身のメッセージを伝えていることです。「声高に叫ぶのは苦手」とおっしゃっる本橋監督は、‘核’という‘パンドラの箱’を開いてしまった人間に問いかけているのだと思いました。
 「アレクセイと泉」は直接的に悲惨さを伝える場面はどこにもなく、ある意味、とてもきれいな映像でした。一見、そこには‘核’の恐怖は感じられないのです。でも、そのことが‘核’の恐ろしさであると思います。
 村人が互いに支えあいながら精一杯生きている様子だけが伝えられます。汚染されていることへの恐怖感は何一つ描かれていないのです。汚染された大地を耕す自給自足の生活。毎年毎年、生活のサイクルは同じように流れていきます。
 村人たちの生活は静かです。その静かさは放射能汚染の‘静けさ’につながっているようにも感じられて、私は余計に恐くなりました。本橋さんの言うように核は‘パンドラの箱’だと思います。そもそも人間には放射能に汚染されなかった「泉」と同じだけの生命力はないのです。「いい使い方」なんて言っている場合ではないことを改めて感じました。

投稿者 hisaka : 2003年07月06日

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