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2003年05月28日

科学的観測精神について

 今日は「地誌学」の日です。テーマは地域学習をしていくために、科学的に物事をとらえ、考えることの意味を把握すること。
 事前に柳田邦男氏の「空白の天気図」というノンフィクションが紹介されていましたが、この本は絶版で市の図書館の検索をかけてみたところ‘書架’となっているほど古い本のようです。

 この本がなぜ今日の講義のテーマになるかというと、1945年8月6日の広島で原爆が落ちた瞬間をどう記録したのか?という部分で学ぶべきところがあるからでした。
 私もそうですが、原爆のイメージというと大きなきのこ雲を思い出す人が多いと思います。原爆が投下された瞬間を克明に記憶するというのはなかなか難しいのは当然です。爆弾が落とされたと山の上から見ていた人も瞬間ではなく、強い光と雲が脳裏に焼き付いていると思うからです。私も幾度か被爆体験を聞いてきましたが、そのときに語られるのは教科書でも見ることが出来る投下後にモクモクと広島の上空を覆った雲のことが多かったです。
 この「空白の天気図」は当時、広島気象台で天気図描きの仕事をしていた北さんという人物の物語です。彼は原爆が投下された瞬時に、「一瞬目も眩むような閃光」「白い朝顔のような巨大な光幕のひろがり」その光幕は「太陽が突然何千倍にもその輝きを増したのかと思われる衝撃的な明るさ」で「目撃した時間はほんの一瞬0.5秒程度」を感じました。そして「1、2秒」で「天地が避けたかと思われる轟音と振動が響いて爆風が頭上をかすめ」ました。
 読めばわかりますが、たったの数秒の間に北氏はさまざまなことを感じているわけです。さらに今日は北氏が実際に語る映像(講師が話しを聞きに行った時に撮影)があり、その中では温度が800度くらいあったと言うのです。
 お気づきになった人もいるかもしれませんが、「温度800度」を人は感じることが出来るでしょうか?そして数秒のほんの一瞬になぜこれだけのことを彼は克明に記録することが出来たのでしょうか?
 ここに科学的観測精神が存在するのです。気象情報は戦争中は国家機密になるほどに重大情報で、もちろんそのデータは科学的に蓄積される必要があります。自然現象は二度と繰り返されないものなので、観測が自然現象を正確に記録するということであれば、決して測定を欠くことは出来ないのです。欠測すればそれだけデータの価値がなくなるわけです。機械があったとしても、それが故障する可能性もあります。それをカバーできる能力、観測というのは測器を読み取るだけではなく、‘観察’・・・全人格と全知識をこめて当るものだという精神を北さんは徹底的に学んできたのでした。その精神が北さんの原爆の記憶へとつながっているのです。

 さて、この講義から私は何を学べたでしょうか?科学的観測精神ですが、これ状況を冷静に捉え、判断する力であると思います。つまり客観性がなければならないからです。主観的に物事を捉え、何とかしようと思うことも大事です。でも今の状況を的確に捉えて行動をすることがとても重要なことです。これは議員活動をやる上でも欠かせない精神だと思いました。物事の優先順位をつける時、そこには主観もありながら、「なぜそのことが大事なのか」を説得力を持って語れる力が必要だとつくづく感じさせられるからです。
 大事なことを要望することは簡単ですが、同じことを全体の‘まちづくり’にとってどんな意味を持つのかを分析しながら提案をしていくことほど難しいことはありません。でも、昔のように何とかお金で解決できた時代とは違い、あるモノをどう生かしていくか(少ないお金)でせめぎあいが続いている現状には‘科学的観測精神’を持って政策提案をしなければ本当に説得力がないよなと思うわけです。
 でも思うのは簡単で、実際にやってみるとこれほど至難の技はないのです。心がけは出来ても・・・・。

投稿者 hisaka : 2003年05月28日

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