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2003年01月13日

政治家なるものに対する思いは如何に?

 さわやかな青空のもとの成人式に参加しました。自分の成人式の時には式典にも行かず、もちろん着物もなし。それを思うとかなり不思議な感じがします。今年の成人式は初めて、新成人を含めての実行委員会方式で行なわれました。実行委員会での式典は初めての試みなのでなかなかパイオニアとしては苦労があったことと思いますが、やはり多摩市と日本の旗が舞台場に高々と掲げてあるのをみると何となく「行政チック」な感じのするところに残念でした。
 式典で私が最も痛烈に感じたのは新成人たちの素直な感受性でした。これは一方では態度が悪いとして片付けられることですが、市長と来賓代表の議長挨拶の時のあのざわつき様は、今の政治を行なうものに対する信用や信頼度そのものではないかと感じたからです。興味があり、関心があれば、少なくとも注意を向けると思いますが、それ以上に友との再会を喜び、会話に花が咲いて止まらない状況は、なるほど「政治家の話しを聞いてみよう!」という思いをくすぐることすらできない事態を物語っています。もちろん自分自身が壇上で話しをしたとしたら、どうなのか?ということはさておきですが、選挙権を持てることにある種の喜びやワクワクする気持ち、期待感が持てるとするなら、おそらく市長や議長の話しを「聞いてやろうか・・・」という思いも出てきそうなものです。
 市長や議長の話しの後に、天気予報士で俳優の石原良純さんの話しがありました。確かにその時も少しはざわついていましたが、それ以前のざわめきよりかは、かなりマシになりました。石原さんの魅力が優るということでしょうか?考えさせられる場面でした。さすが、政治家への信頼度は約15%、天気予報への信頼度は約92%という朝日新聞の調査は当っていると思います。
 今日は午後から、民主党の新春のつどいにも参加しました。生活者ネットでは政策協定を結ぶかたちで、今のところ、国政は民主党を応援しています。町田と多摩の2市で23支部を結成し、石毛えい子さんが衆議院議員として活動をされています。彼女は障がい者の問題の専門家だそうですが、ゆっくりと話しをしたことがないのが残念です。それほどに国会議員とは忙しいのでしょう。でも国会議員を街の中で見かけるのは、たいていは来賓としての挨拶や、もしくは選挙の応援演説で一体、普段はどんなことをしているのだろう?と思ってしまいます。
 個人的にはステイツマンが支援している加藤公一さんの活動は見ています。彼は伝えたいという思いを大事にして、駅頭演説を欠かさずやっていること、誰でもウエルカムなミーティングをこまめに開催していること、そして夜間には政策立案のためなどに勉強をしていること、私がさらにすごいなと思うのは、多くの学生をインターンとして事務所で受け入れていることなどがありますが、多摩市の国会議員がいないからか、国のナマの政治を多摩市にいて知る機会は少ないと思います。
 さて、私は今日、「新春のつどい」へ行き、まるでテレビドラマの中にきてしまったという気持ちになりました。いつもなら、俳優の竜雷太がブラウン管の中で演技をしているのとソックリな場面なのです。金ぴかの屏風の前に支援者や議員たちが立ち並んでの挨拶。議員のところに押寄せ、握手を求める年配の方、そして議員自身も食事を口にせず会場内をひたすらかけまわっては頭を下げる・・・という光景は、私にとってはまるでテレビドラマ。特に、最後にちょこっとだけ菅さんが挨拶に来ましたが、なぜかその時だけ会場が薄暗くなり、菅さんにスポットライトが当りました。その場にいる自分にちょっと可笑しさがこみ上げてしまいました。「面白すぎる。」と思いました。テレビドラマも誇張してそうだけれど誇張してないんだと。
 実際に私はこのような類の会合が「政治家とパーティチケット」みたいなイメージを払拭できずにいると思います。保守系から革新系までが全て地域の国会議員を中心にしてパーティを開くわけですが、規模の大小は別にしても、こういう会そのものが政治家らしすぎて、市民感覚とはかけ離れたものとしか思えないのです。学生などに政治家のイメージはと聞くと、「金」という回答が多いのですが、それこそが悪イメージで、私が最も変えたい部分なのに、今日のような新年会を見ると「おーーっ、これが政治なのか!」と思わずにはいられません。せめて金ぴかの屏風はやめてもらいたい気がします。もっと普通に簡素でいいのではないかと思います。このような会合、そして屏風は悪しき名残、私にとっては忌々しきしきたりや慣習のようにしか感じられないのです。こんなところで煌びやかにしなければ政治家としてやっていけないとする社会とははやく決別する必要があります。政治家の活動の一部であるということは、このような会合にも税金が使われていると考えることだってできるわけです。
 批判めいたことを書きましたが、このような会合を通じて人とのつながりを維持していくという意味が十分にあることは私は理解しています。でもそれならば、もっと他のやりかたを考えて創っていかなければなりません。あの金ぴかさは今の時代にもあっていないと思います。
 これが今日感じたことでした。「政治家に対する思いは如何に?」して創られていくのでしょうか?根本を考えれば一票を投じる人の姿勢からはじまります。となれば、やっぱりわたしたち自身が脱・金ぴか屏風を訴えるしかないと思いました。私はカジュアルなのが好きです。

投稿者 hisaka : 2003年01月13日

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