« 「どうすればいいのかわからない・・・」 | メイン | いろいろな動きを楽しめるように »

2002年12月07日

映画「ダイオキシンの夏」

 午前中は給食市民連絡会。給食センターは今、永山に第一センター、第二センター、それから南野と三ヶ所あります。これを永山で一本化しようという構想が進もうとしていることが話題になりました。やはり子どもたちのことを考えてみれば「美味しい給食」は自校方式が一番だと思うわけです。けれどもどうしても「センター方式」で給食を展開していくと言うならば、それこそ「センター方式のほうが子どもたちにとってのメリット」が大きいことを説明してもらいたい気がするのです。これまでは、合理化や効率化・・・先生たちの仕事量の増加という側面だけが強調されていて、「子どもたちにとってセンター方式がいい」という理由はほとんど説明されてきません。市民連絡会ではどうしてもセンター方式の良さが理解できないので、私たちが納得できるためにも説明を求めていうことになりました。
 午後から三越前での遊説をちょこっとやりました。あまりにも寒くて雨も降ってきたことや、ちょうどイルミネーションの一環で子供向けのイベントをやっていたのですぐに終わりましたが、「遺伝子組換え反対」の旗のところに近づいてきたおじさんは「そんなことやったって無駄だよ。どうせ嘘つかれるんだよ。意味がないよ・・。」という持論を吐き捨てるようにして言いました。おじさんの話は決してまちがっているわけではないけれど、社会に対する不信感がこんなに募っているなんて、寂しい世の中だと思いました。
 そして今日はベルブ永山で開催した消費生活フォーラムの映画上映「ダイオキシンの夏」を見ました。これは1976年にイタリアで起きた事故をもとに描かれたものでした。ちょうど私が生まれた頃の話です。ストーリーはとても単純で、化学薬品工場のミスで煙突の安全弁が外れてしまい、町全体に白い粉が降り積もり、数日で白い粉は消えたけれど、町中の動物が小さい順に死んでしまって、人間にも吐き気や頭痛などの症状が広がるし、「白い粉」はなにか・・・?と言うことを子どもたちが調査をスタートします。そのなかで企業の説明責任のなさや政治家の判断がどうあるべきか?などを考えさせられる場面が多々あります。最終的に粉が「ダイオキシン」であることが明らかになり、それについての工場側の対応が全然誠意ないものに描かれていて、結局何も知らされてこなかった市民や労働者たちはただ苦しみ、途方にくれるだけの存在なわけです。
 けれども主人公の子どもたちはそれぞれに「他人をせめても始まらない。」ということを自覚します。「人間は間違う。でも間違ったことに対してどういう姿勢で臨んでいけばいいのか。」・・・化学薬品だって自分の生活には欠かせないものだと考えれば、自分たち自身も加害者でもあるんだからとスクリーンの中から訴えるわけです。
 今の生活様式の中で考えるとやはり「ダイオキシンの発生」を他人の責任だけにはすることができません。必要だからこそ存在するもの、例えば化粧品だったり、プラスチック製品だったり、それらのものを欲しているのも自分たち自身なわけです。ペットボトルにしてみても、これだけリサイクルが行詰っているし、何とかするべきだ・・・という意見があってもどんどんと増殖するかのように、暖かい飲み物にも対応したペットボトルも開発されてきています。でも買う人がいなければいいけれど、それを購入する人がいる限りは、当然に企業が「作りません」という選択をしないと思います。よっぽど法律が出来れば別ですが。
 そんなことを考えてみると、本当に人間って何やってんだろうなあ・・愚かだなあって思い、悲しくなって落ち込んでしまいます。私の周りを見回しても「ダイオキシンの素」だらけです。もはや生活に欠かせないものが「恐ろしい」わけです。
 全ては自分たちの責任で何とか出来るならば何とかすべきだと思います。何とかしたいとも思うけれど、私はもう何とも出来ない時代にきてしまったと考えているわけです。自分たちが自分たちのことを破壊してしまう時代を生きている自覚を一人一人が持つしかないのです。「自分たちの生活を自分たち自身で守る」ということは「自分のまちは自分の手でつくる」という意識にもつながるわけで、個人個人が自分自身の<生きる>に責任を持つということなんだよな・・・と改めて思いました。

投稿者 hisaka : 2002年12月07日

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
/197