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2002年12月03日

評価の時代に

 今日の質問者の中で「学校教育」の話題がありました。その時には学校の成績が相対評価から絶対評価へと変更をしましたが、絶対評価の正当性を問うているようなないようでした。絶対評価になると先生の力量がものすごく試されると思います。
 大学はある意味で絶対評価です。テストはするけれど先生の主観で点数がつきます。60点以下は全て単位がもらえないわけで、別に先生としてA、B、Cに何人ずつと言うような人数の振り分けもなく、Aなら90点以上みたいな感じで自動的に決まるからです。そこには先生の力量はありません。機械的に点数で区切るからです。これが相対評価だと人数ごとの割り振りなんかにも頭を悩ますのだと思われます。
 話題に出ていた学校の成績表は本票のほかに細かい各科目の分野別評価表、それから生徒の自己評価表もありました。ずいぶんと学校も様変りしているんだなあびっくりしました。そこの学校では先生のていねいな一言が成績表に添えられていることが紹介されました。
 実は私の通っていた中学校、高校には成績表がありませんでした。でも一応成績はありました。二期制だったので前期と後期の間の秋休みと年度終了の3月に個人面談と保護者面談がありました。そこで成績を口頭で伝え聞いていました。例えば、私の場合では体育の実技はBだけど保健体育のレポートなどはA・・・総合では「A」のような成績のつき方をしていました。私は成績を評価されているとしてとらえたことはなく、自分自身の達成度だと考えていて、先生の認識と私の認識のズレを一番気にしていました。私が出来ている・・・と考えていたものを先生が出来ていない・・・・と食い違いがあれば、なぜ違ってしまったのかを考えるほうが自分にとってプラスだからです。そして私自身はまだまだ出来ていない・・・と考えているのに、先生が出来ているととらえているとすると、それは私にとってマイナスで、自分自身がもっと先生に教えてもらいたいことや、わかりづらかったことや疑問を伝えることにしていました。
 私の経験から言えば、いくら小学生でも中学生でもその年齢なりに周りの中での自分の位置を確認すると思っています。私自身も中学や高校の時、自分自身を評価していたと思うからです。別に成績がいい人からの順番が一覧表で張り出されなくても、何となく出来ている人のことはわかっていたし、その中で自分の位置も感じてきました。
 私がなぜこんなことを思い出したかと言うと、何でもに評価という言葉がつきまとう時代ですが、一番大切なことは「なぜ評価をするのか?」という意味をどこまで子どもたちに伝えているのかがわからなかったからです。確かに評価は大切だという意味もわかりますが、相対評価にせよ、絶対評価にせよ、何のために評価をしているか、その真意を伝えきれないままに成績表が渡されるのが今の小学校一年生だと思うからです。「評価」は「評価」ですから、相対評価から絶対評価に変わったところで「評価」に対する受け止めかたが大きく変わることはないと思っているし、現実に話を聞いてみても子どもの受け止め方もこれまでとは全く違っているようには感じられません。
 何でも評価で、行政も評価される時代になりつつあります。でもその評価基準も本当に難しいと思うわけです。なぜなら他の自治体との比較では語れないからです。他よりは多摩市は優れている・・・というものではなく多摩市の市民自身がどう感じているかが一番肝心です。
 とはいうものの、いつまでたっても「検討」「研究」ばかりだとちっとも張り合いのない議会でのやりとりは問題です。議会と言う場所は一体、何のためにあるんだろうと自問自答してしまいます。ここ全体を評価にかけたらどうなるでしょうか?行政側も議員側も含めての市民の評価表を覗いてみたい気がします。

投稿者 hisaka : 2002年12月03日

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