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2002年12月02日

学校のトイレ掃除

家で家族が使っているトイレ掃除もかなり憂鬱だけれど、これが公衆トイレともなるとますます憂鬱どころか、見て見ぬフリ・・・をしたくなるのが心情だと思います。
 でも、近頃は駅のトイレやスーパーのトイレも随分と使い心地もよくなり、外出先でもいらない我慢をする必要がなくなった気がしています。
 さて、今日の質問で「学校のトイレ清掃について」がありました。質問者の主張によると業者によるトイレ清掃の回数が減ったためトイレの臭気が漂って生徒が使えないというのです。私自身は実態がよくわからないものの、記憶を辿ってみれば、小学生の頃、なるべくトイレを使わないように心がけていたことを思い出します。ところがもうひとつの記憶に寄ればトイレ掃除が楽しかったことも覚えています。というのもトイレ掃除になると「もったいない」ほど水を使って掃除当番をしていたことがあるからです。クレンザーを使いまくり、とにかくきれいにしたいと思って掃除をするわけです。そして、自分がきれいにしたものだから、なるべく使用するほかの人には汚さないように使って欲しいと思うのです。つまり自分たちで掃除をするというのは自分たち自身でトイレを使うマナーを学んでいくことにつながると考えるわけです。
 掃除をする人の気持ちになった使用者のトイレの使い方はやはり違ってくると思われます。これは全くまちづくりという発想にもつながってきますが、まちづくりを自らやっていく・・・ということはそこで自分自身が果たすべき義務とか責任感を次第に身につけていくからです。トイレを使うときにはなるべく掃除をする人、そして後から使う人のことを考える・・・この発想はこの間聞いた、小学生のまちづくりの話にもそのまま通じることで、自分たち自身がアイデアを出して完成した駅前通り(小学生のアイデアとは駅前通の敷き詰められたブロックのデザイン)に、ガムや小さなゴミくずが捨てられているのを見て、悲しい気持ちがした・・・・と似ていると思うのです。
 そういう自分たち自身が小さいかもしれないけれど果たすべき責任を小さいうちから会得できる場面は貴重だと思います。確かにトイレがきれいで当り前・・・という固定観念を作ってしまうよりは、トイレのきれいさは使う人次第だということを学ぶことが教育ではないかと思います。とはいえ、学校も老朽化をしていて、子どもたちの掃除ではなかなか追いつかないのかもしれませんが・・・。
 実態があまりよくわかっていないので、えらそうなことは言えませんが、業者が入ってのトイレ掃除の回数が減ったことを問題にするよりは、子どもたちのマナーとの兼ね合いで捉えた時にどのくらいトイレ掃除の大変さを伝えることができるのかや、トイレ清掃を通じて身につけるべきマナーを教えていくのか・・・まずはそのことを問題に取り上げてもらいたいと思いました。教育の現場で教育なされずにトイレが汚いまま放置されている現状自体が問題だと思います。それを業者の清掃の回数が減った責任へと転嫁しているようにしか聞こえなかったからです。 トイレ掃除ひとつを考えてみてもわかりますが、自分たちで自治していくことって本当に苦労の多いことです。自分でやってみて初めてその大変さがわかるからです。自分の嫌なことも嫌とは言えない側面もあります。人間一人で生きていくことはできない以上、自分たちの責任や役割を周りの人と分かち合いながら共同社会を作っていくわけで、そこは当然わきまえなくてはいけないルールは存在します。
 それにしてもなぜあのように業者へのトイレ掃除を要望するのか未だによくわかりません。自分たちの使っているトイレなら、当然のごとく自分たち自身で清掃するべきなのになあ・・・と。トイレをめぐるルールはそれこそ人間のコミュニティづくりの基本になりそうです。

投稿者 hisaka : 2002年12月02日

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