あれから、12年が過ぎ。

昨日は諏訪中学校の卒業式があり、制限の多い3年間を過ごした子どもたちの門出をお祝いすることができ、その成長ぶりを目の当たりにできる喜びがありました。小学校の卒業式も中学校の入学式も、新型コロナに見舞われ、その後の3年間も学校生活のあらゆるところに我慢、忍耐が強いられたことと思うのです。社会全体がもちろんストレスの多い環境だったと思いますが、子どもたちに与えた影響は計り知れないと思っていますが、まだ、この先に結果が見えているわけではありません。卒業証書授与のときに、マスクを外した子どもたちの顔を見ることができたことにもホッとしますが、気になったのは卒業式に欠席している子どもの数が今まで知っている限りにおいて…最も多かったことでした。

諏訪中学校には教育長が来賓として出席されていました。マスクの着脱については、教育長に倣うことができ、「国家斉唱」「校歌斉唱」の時だけ着用…あとは外すことができました。学校は管理職の先生と数名は外しておられましたが、まだまだ先生たちもマスク。もちろん、保護者もほぼほぼマスク着用でした。会話をしないのだから、外しても良いのでは…とも思いましたが、積極的に外すことを促すようなアナウンスがなかったので、やっぱり周りを見つつ、「外さない選択」…というよりか、「外せない」と考える方が多いんだろうと感じました。

子どもたちは合唱の時にはマスク。マスクをして「歌う」ってとても苦しいのですが、子どもたちももうそのスタイルに慣れてしまったのかもしれません。さて、「福島と多摩をつなぐふれあいコンサート」が行われ、ちょっとしたご縁もあるので足を運んできました。

もう東日本大震災から12年目を迎えます。「あの日、あの時、あなたは何をしていましたか」という問いかけに過去のことを振り返っていました。震災の翌日は娘の保育園の卒園式で私の誕生日で、そして原発が爆発した日であること…毎年思い出します。それぞれ、子どもたちのメッセージや歌声を聴いていたのですが、「福島しあわせを運べるように合唱団」のみなさんの発表には涙腺が緩むばかり。失うと同時にしかし、その中で何よりも自分に向き合い、得てきた経験や体験を糧にしている強さを感じずにはいられませんでした。でも、背負っているものの重さや傷つきは深く、安易に手を差し伸べられるようなものではないということも感じます。ただ、忘れないことだけ。これが私ができることなのではないか。そしてまた、忘れないからこそ、私たちは自分たちの暮らしのなかで「活かさなければならない」と思うのです。今、それとはまったく逆行するような原発再稼働方向等、社会がシフトしていることなど…ため息の出る話題は多い。

子どもたち同士の交流。草の根の活動で支えるのは主催されている桜ケ丘商店会連合会のみなさん。2015年からの取組みです。ここ数年はコロナで中止を余儀なくされていましたが、こうした交流が再開できることの大切さを子どもたちが素直に表現してくれ、私たち大人に多くの気づきを送ってくれたような気がしてなりません。「とても良い企画だった。」とありきたりの言葉でしか、すぐに表現できないような感じ。うまく言葉が見つからないくらいの気持ちになったのです。数年ぶりの開催だったせいか、子どもたちに知らされたことの大きさに心が揺さぶられました。

 

震災学習コーディネートマップ2。福島しあわせを運べるように合唱団のみなさんの活動をまとめた記録集。とても貴重な冊子。送っていただいたのですが、当事者である子どもたちが震災を学習する必要があるのか。そのことの答えもまた、今日の歌声から感じ取れた気がしたからかもしれません。

東日本大震災から12年、一巡りの12年間を迎えるまでにコロナ禍での3年間…私たちの社会に与えた多大なる影響…問われるのは「にんげんの営み」であり、私たちの暮らしであり、あまりにも人間中心で運営されてきた社会の在りようではないかと思わずにはいられなく。一人ひとりが問われているのだろうと感じています。「今だけ、自分だけ」…そして「金だけ」と軸足を置いた在りようそのものを変えていくのもまた私たちなんだろうなと。

記録集にあり、子どもたちが出会った方の言葉。復興支援に関わっておられる方のインタビューより。「自分だけが利益をあげてもそれでは町全体が崩れてしまう。町全体が潤うことが大切で、そのようなまち作りが大切なんです。」。

みなさん、どうもありがとう。

ところで、福島、二本松市から来てくださった合唱団の皆さんは舞台上ではマスクを外し、歌っておられました。一方、共に出演した多摩第一小学校、多摩中の子どもたちはマスクを着けたまま合唱をしている…ということで、壇上での差異がくっきり。多摩市の小中学校ともに、有志で参加している子どもたちでしたので、未だ「歌う」に蓋がされていても、それでも「歌う」「歌いたい」と主体的に参加する子どもたちの心の底にある想いを大人はどう受け止めているのかな…と思ったりもしました。「マスクを外して歌ってもいい」にできなかったことに心が痛んだひとときでもありました。