「誰が決めているのか」を問うこと。

大学時代の恩師でもあり、25歳になる直前に市議補選に出るきっかけを作ってくれたのは辻山幸宣先生。急逝されたとの連絡が届き、呆然としてしまう。療養中であることは伺っていて、あまり状況は芳しくないことも聞いてはいたものの、新型コロナ禍にあってはお見舞いにも行くことがかなわず…「再会できる日を願って」という気持ちは打ち砕かれてしまう。悔しい。

多摩市の自治基本条例をつくる過程でも関わってくださり、当時、議会内での合意形成を図っていくときにもいろいろと知恵をお借りし、アドバイスもいただいてきたことが昨日のように思い出される。そして何よりも、先生と会話しているときに常々「誰がそれを決めたのか?」と問われることも多く「ハッ」とする自分自身に向き合う投げかけをもらうことも多かったなと。市民社会と向き合うとはどういうことなのか、先生の眼差しはやさしいけど、厳しかったなと思う。実は先生は父と同い年。

「地方政府論」の授業で先生が語っていた「地方分権」の話がとてもおもしろく、私は先生のゼミに。ゼミが終わると毎回、高幡不動のお店で飲み会。でも、先生は「ただ酒飲みにだけ来るな。」が口癖。それは大学を卒業してからも同様で、お正月に先生のご自宅にゼミ生が押し掛ける時も「何しに来たのか」と問われることも。自分自身が今、どういう立ち位置にあるのか、そこで何を考えているのか…「市民としてどう生きているのか」を先生は語らずとも、静かに私たちのことを観察していたような気もします。

いろいろ思い出されて、悲しい気持ちにもなりますが、「悔やんだってしかたないじゃないか。」とも言われそう。「市民主権とは何か」…という難解な問いかけを常に忘れず活動に励むことにしたいと心に誓った一日でした。ご冥福をお祈りいたします。