「止められない」ということ。

先だっての金曜日、多摩市議会のネット・社民の会、日本共産党多摩市議団、フェアな市政の会派にて「多摩市内の聖火リレー中止及びパブリック・ビューイング中止を求める要望書」を市長に提出してきました。

市長からは「多摩市でやるのはパブリック・ビューイングではなくて、コミュニティライブサイトなんだけれど。それは、パブリック・ビューイングとは違うものだ。」と解説をいただいたのですが、一つの場所にみんなが集まって観戦するのだし…予め、この要望書を取りまとめてくださった橋本議員によれば、「担当者にも確認したんだけれど。」ということでしたので、訂正修正はせず、受け取っていただくことができました。歓迎、おもてなし…が自然と湧き上がるような空気感とは隔たりある中でのオリ・パラの開催については、複雑な気持ちでいっぱいです。

市長は聖火リレーの中止を決めるのは大会実行委員会だと話しておられ、多摩市で決められるものではないと話しておられました。コミュニティライブサイトについても武道館で開催し、出入り自由ではなくて、予め観覧希望者を募集する形式にするなど、個人を特定できるような対応にするようですが、いずれにせよ、多摩市の一存では決めることができない事項という位置づけになっていて、市長の個人的見解を述べることもなかなか難しいと察したところです。

「止められない」ということなんでしょうね。一度、動き始めたものは。そのためには余程大きな決断と覚悟が必要になるということで、物事一つ進めていくために取り巻いているアレコレ(有象無象とは言わないが)…抗うことの難しさを思うものです。周りの取り巻く状況や状態が様変わりしていても難しい。

多摩市でも中央図書館の建設やら、北貝取小学校のリニューアルと新たな公共施設の設置とか…今、これを優先してしまってよいのかと思うものであっても、何の躊躇もなく進めてきたことを思うと、オリンピック・パラリンピックしかり…とも思えてなりません。それよりも今、やるべきことがあるだろう…という主張を耳にするとき、それは多摩市内にあてはめても同様なんだけどなあ…というのが個人的なボヤキでもあります。

「進むも地獄、引くも地獄」なのかもしれません。しかし、進んでしまって、コトが起きてから、「だから、あの時」と後悔しても後の祭り。政治家の責任というのは「辞めれば済む」のかもしれませんが、影響被るのは国民であり、都民であり、市民であり…全部、降りかかってきます。責任がどんどん先送りされているだけの構図になっていないか。私たち一人ひとりも少し冷静に考えたいものです。直接でなくとも、間接的には市民、都民、国民が選んだ代表者がいて、彼らに委ねているわけですから。最後には、結局・・・誰の責任でもなくなるというか、巡り巡って「自分たち自身の責任」に還ってくる。だから、どう選ぶのか、誰を選ぶのかはとても大切になってくるのでしょう。

6月議会も最終日を迎えます。緊急事態宣言も解除。しかし、ここ一年間振り返ってみれば、緊急事態宣言期間を一体どれだけ過ごしているのか?…という話しであって、自粛生活とやらも自粛生活ではなくなっている気がします。感染防止というのは基本的には手洗い、うがいだと私は思っています。暑い中でのマスクは却って体調不良の原因にもなりますから、ほどほどに。