「忖度なしで」…。

さて、議案提出も電子化…ということですが、しかし、予算書はやっぱり「紙」にしてもわないと…って思ってしまうのは「旧型」「旧式」にカテゴライズされる議員にされるのかもしれません。でも、やっぱり、資料を突き合わせてみたいとか思うとき、予算書くらいは「紙」でほしい。まあ、これは従来通りの対応なのですが、いつしか、「過渡期対応」という言葉が無くなってしまうのか?‥‥毎年、ここだけは冷や冷やしているのです。

ということで、今日は朝から、市役所の各部署から相次ぐ電話…。はい、代表質問について事前のヒアリング…議員側がヒアリングをされるというか、職員の皆さんがいらしてくださるというのか、質問意図などを探りに来るというのか…そのために「日程調整をさせてほしい」ということなのですが。

「答弁書の締め切りが迫っておりますので」

ということで、なんとまあ、調整しきらないんですけれど…というくらいに、あらかじめ入っている公務以外の予定をすべて外す羽目に…とほほ。

それでもたまたま市役所に行く用事があったので、その後…運よく?その場で「あ、いま、役所にいらっしゃるならお時間ありますか?」ということとなり、結局…ヒアリングを終えてから自分が調べたいと思っていたことの資料を探したりして、帰宅したら19時を過ぎていてやれやれ。

そんなに私や私たちの会派の意見は「忖度しなくていいですよ」…と思っていて、「行政の皆さんがお考えになっていることを聞かせてほしいし、今、現時点での到達点をきちんと説明してほしい。」ということが大事なんですよね。意見が常に一致することばかりではなく、違いがあるから議論になるわけで、その違いをお互いに認め合ったり、受け止めあいながら、折り合いをつけること、調整をつけていくことが大切なはず。行政が考えること、議会や議員が考えていること…行政が考えていることだけが正しいわけでもなければ、議会や議員が考えていることがすべてでもなく、結局のところ、市民の社会も多様な考え方があるからこそ、どちらかだけ…というのではなく、絶えず落としどころとか、歩み寄りをしながら、合意点を探すことが最も良いことなんじゃないの?

これが基本的な私のスタンスで考え方。良いものは良いとして評価もするし、取り入れていく。学んでいく。ただ、それだけのこと。「なので、忖度しなくても大丈夫」…ですが、「私、あるいは私たち会派の主張も‘全無視’ってことはしないでください!」…って言いたい。

そして、今回の私、あるいは私たち会派のキーワードは「お手本」ということ。私たち会派の一人ひとりも自分自身をきちんと「整えること」「調えること」を大切にしなければならないと思うのです(あ、できているかどうかは別として)。会派代表の折戸さん、「ととのえること」は自分自身に向き合うことだとおっしゃっていて、私はそのことにとても共感しているのです。自分の足元をまず見ないといけないですね。

もちろん、なんか、いっつも自分自身を縛るような気分で過ごしたり、緊張感ばかりというのでは疲れてしまうので、時々の息抜き、そしてまた思いっきりサボったりすることも大切という意味で「ととのえる」ということです。コロナ禍で私たちが得たものは何だったのかなあ。

いろんなことを考え、振り返りながら、代表質問をつくりました。そして、質問の冒頭で書いたのは真弓定夫先生のこと。私の信頼する友人から真弓先生の話をたくさん伺いました。そして著書を読んだりして、すばらしい小児科の先生だなと。質問の冒頭だけご紹介しますね。

昨年、お亡くなりになった小児科医の真弓定夫先生は人間づくりに大切な要素として「共生共存の思想」と「覚他の精神」を挙げておられました。私たち「ひと」は地球上に存在する森羅万象によって生かされていること、そして、自分だけでなく、周囲の万物に対して配慮する気持ちが何よりも大切であることを強調されていました。私たちは新型コロナウイルス、パンデミックに向き合い、何を学び、今後に生かしていくべきなのでしょうか。まだまだ感染症対策は続き、自治体として果たすべき役割と責任を全うしていく必要がありますが、それと同時に、私たち人間の社会、経済活動の在り方の根本を見つめ直しながら、次の世代につながるまちづくりを進めていくべきだと考えています。

これから、やっていかねばならないことのほうがきっと重要なんだと思っています。

今日は「木」の話しもできたしなあ。見慣れた風景、大好きな景色、「無」になってしまうことそのものに私たちは常に寂しさや不安を覚えるのかもしれませんね。